アキ・カウリスマキの「浮き雲」

プレーンだからおもしろい

花田清輝の作品集を読んでいたら、坂口安吾の「あきらめアネゴ」と称する小文を紹介するくだりが出てきて、この「あきらめアネゴ」というネーミングを私はけっこう気に入ってしまったのでした。銀座並木座の最終上映週に見た「晩菊」の、細川ちか子扮する役柄をふと思い出し、言い得て妙だと思ったのです(ちなみに清輝の小文は「日本人の感情表現」。興味のある方はご一読を)。

そのネーミングを真似るなら、「浮き雲」は「諦めずアネゴ」、いや「懲りないアネゴ」と「懲りないアニキ」の物語ってことになりますか。路線バス運転手の夫とレストラン給仕長の妻が新たなローンを抱えたところで共に職を失ってしまい、悪戦苦闘して職を得るまでのお話。と書けば汗と涙の感動物っぽいが、どっちとも無縁。というのもイロナとラウリのこの夫婦の苦闘ぶり、どうにもおマヌケなのである。ダンナがトラック運転手の仕事を見つけてきて喜んだのもつかの間、目の検査で落とされた上に運転免許まで取り上げられちゃうし、奥さんは怪しげな職業斡旋所で高い斡旋料をふんだくられたあげく、悪徳レストランでただ働きするハメに。てな具合にせっせと就職活動するもののことごとく失敗の憂き目に遭う。まぁ、この手の苦労は今の日本にもないとはいえない。が、二人の場合はさらに自家用車を売って作ったなけ無しの虎の巻を、もっと増やそうとマジでカジノに乗り込んで、あっけなくスッてしまうのだ。

せっぱ詰った大事なときにこの思慮分別の無さ。しかもどちらかといえば滑稽味をもって描かれているので、ときにこいつらアホかと呆れもする。しかしよくよく考えてみれば、人間のしていることなんて案外こんなものではないだろうか。どんな状況下でも理性的且つ適切な判断を下せる人なんてそうはいないし(たとえば最近信者が訴訟を起こしたことで巷を賑わしている某女優と女性総師の問題にしても、信者には切実な理由があったのだろうけど、客観的に見れば1億円ものお金をつぎ込むのはやっぱり常軌を逸しているとしか思えない)、ご本人が悲劇と感じているほどには物事は悲劇的に見えないものなのだから。

カウリスマキという監督は、本人にとっては切実で悲劇的、だけど他人から見れば滑稽、といった設定を作るのがうまい。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」はサイコーにかっこいいと自負するロックバンドがアメリカに行ってズレを体験する話。「コンタクト・キラー」は自分を殺してほしいと殺し屋を頼んだ主人公が急に死ぬのがいやになり、その殺し屋から逃げ回る話。「愛しのタチアナ」なんて、冴えない男たちが冴えない女たちをナンパして、しかしアメリカ映画の主人公のようなかっこいいデートとは似ても似つかぬぎこちなさを丁寧に描いてる。

ただしどの作品も主人公を貶めたり嘲笑していはいない。むしろ他者の眼にはバカバカしく見えても本人には重要な意味をもつものがあるのだということ。そしてかっこよくなくても滑稽でもいいじゃないか、というカウリスマキの人生観とそういう生き方をしている人々への共感が一環して流れている(うがった見方をすれば、ヨーロッパの田舎と言われ国際経済からはやや遅れをとりながら独自の生き方を摸索している北欧の、こういう生き方もいいじゃないかという肯定論ともとれなくもないが)。それに彼の作品の主人公も自分を悲劇のヒーローやヒロインに仕立ててメソメソ自己憐憫に浸ってはいない。「浮き雲」にしても、なんの取り柄もない夫婦が、甘くない現実から決して逃避したりせず、愚痴も言わなければ誰に責任転嫁するでもなく、闇雲とはいえ自分たちの責任で前向きに生きていく。この「凝りなさ」がよいではないか。

それにしても、相変わらずセリフの少ないこと。「マッチ工場の少女」の極端な無口は例外として、今回の二人も小津作品の笠智衆よりセリフが少ないのでは?

映像もとてもシンプルだ。うるさいカットバックもないし、奇をてらったつなぎ方もしていない。主人公もごくごく平凡。それでいて結構最後まで見せてしまう。カウリスマキっていい腕してるとつくづく思ったのでした(余談ながら、私は彼の「ラヴィ・ド・ボエーム」も好きです)。

quittan

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