オスカーとルシンダ

興味深い1品に対する2人の批評を比べてみてください。偶然評価が分かれたのですが、その捕らえ方を比べると、やはり映画も多面性のある芸術ということです。それぞれの文章の長さもこの映画に対する思い入れの差でしょうか。

「オスカーとルシンダ」===厳しい評===

プルミエール誌の評価はなかなかのものだったが、そのわりにいまいちの映画。

ただ、終盤のガラスの教会が川を上るシーンは名場面。さらに、この教会が沈む場面がこの映画の主題を全て語っているかのようだが、最後に陸へ引き上げられ、朽ちた教会を出してしまっては興ざめ。

いくつかのキリスト教的教訓を映画のメッセージとして捕らえても、人間関係の浅さと、その意味の曖昧さにはついていけない。主題の一つであるガラスの意味があまりにも単純で、賭け事の意味する表裏とガラスの果敢なさとの繋がりも感動しない。役者の選択もぱっとしない。もっとくせのある主役を使ってほしい役ではないか。なんだかんだ言っても、俳優によっては客がさらに入らなくなるかもしれないし、人気俳優をつかって無理やり客足を掴んでも、くだらない内容には変わりないだろうし。もちろん客の入らない映画は赤字となるし、そうなれば映画産業が縮小されるようでつらい。どちみち脚本のつめの甘さがこの映画の大失敗点。撮影はいいから、その為にみる価値はある。

立野 浩超

「オスカーとルシンダ」===評価高し===

物語の始まりの、ルシンダへの父と母からの誕生日の贈り物「涙ガラス」。この映画の手掛かりはここから始まっているのではないだろうか。(注釈:「涙ガラス」はなにか伝統的な意味がありそうだが、私には分からない。)どんなことをしても割れないと言い張る父親と母親。ルシンダはペンチで試してみるよう言われ、ペンチで「涙ガラス」の中ほどに力を込める。なにか不安そうにペンチに挟んだルシンダ、その瞬間粉々に跡形もなく割れてしまうなんて思いもつかない。そのプレゼントは一瞬の内に砕けてしまうのだ。「割れる」「割れない」信じるものは二つに一つ。ストーリーの入口のこの「賭け」、そしてそれはこの話のルシンダの生き方を暗示している。一方、自分の将来の進むべき道を石を投げて決定しているオスカーも同じく「賭け」ることから彼の行動が始まる。この言葉がこの物語(脚本)の映画に対する「賭け」だったのだろう。

ストーリーは単調に進んでいくのでつまらない。しかしオスカーとルシンダの一つ一つの場面が交差していくに従ってなんとなく一定のテーマがあるようで、「賭け」に対する推察が正しい事を感じ始める。ルシンダがオスカーに出会うシーンにしても二つあるドアを「どっちにしようかな、神様の言うとおり。」で決めている。もしももう一方のドアを開けていたらオスカーに出会っていなかっただろう。

物語の中には二者択一的な「賭け」がちらちらと現れ、「運命」(人生)は、「賭け」(偶然)の連続で、支配されていることを示唆している。このことは後のオスカーの台詞からもわかる。「天国に行けるかどうかなんてわからない、神に賭けているようなもの」と言う。「賭ける」ことを罪とする神、しかし人は天国に「行けるか」「行けないか」誰も結果の分からない、保証もない死後に賭けて思い思いの神に祈る。「運命」には「賭け」が関わっていることを、この極端な話の人物をとおして観客が考え始めていた。「賭け」の結果は常に不安定要素であり、誰も予期することはできない。人間は「賭け」という不安定な「運命」にまた運命づけられている。ルシンダもオスカーも私欲のために「賭け」(ギャンブル)をするのではない、不安定さに支配された「賭け」のなかで見出した彼らの「運命」だったということに皮肉っぽい面白さを感じる。ギャンブルを愛するルシンダは同じく不安定で一定の形を持たないガラスを愛す。ふわふわと水に身を任せて浮かぶルシンダ、ときどき現れるこのシーンにもまた、不安定に彼女の生き方を描き出していることが分かる。

この話から一般の善と悪の定義は実は不確かなもので、罪の根底となるものが本物の悪を秘めていないときに受けるべき罰は何なのか、ということを考えさせられた。人間が「正しい」と定義づけた生き方、行為は一体どこから来たものであり、そして人間はその根底にある「正しさ」をきちんと身につけて進歩してきたのかという深い問いかけを感じる。

ガラスの教会を無事に届けられるかという賭けにオスカーは自分の最大の財産である愛と命を賭けて出発する。形を成せば硬いが、不安定な性質を持っているガラスで出来た教会。神への侮辱と非難されるが、その教会を新たな勇気を携えて旅に出る。教会と共に地獄に落ちるか、天使の集まる教会を建てられるか。教会を無事に届けることができるかということは、ギャンブルをしてきたが今まで私欲はなかったと誓うオスカー、一方、神に対しては罪と認めて良心の呵責に悩んでいるオスカーにとって、彼が今まで罪と認めたものの底に「罪」があったのかという人生すべての「賭け」も含んでいる。神を侮辱するといわれるが、神を尊んで作られた教会を命がけで届けることで神が認めてくれるのかを賭けている。

この話の結末がどんなものになるか予想が付かなくてさらに興味がわいた。ガラスの教会がちょうど オープニングに出てきた父親たちの教会と対比されている。そのまま父と息子の生き方の対比にもとれる。この美しい場面に全てが集約されているように思われた。

はかなく、不安定なガラスに囲まれ一人座るオスカー、ガラスは今にも壊れそうで崩れるガラスの破片が彼の上に降る。人間はこの不安定な危険な「賭け」の真っ只中に一人一人が生きている。

私としてはこの印象を残して静かにTHE ENDになるほうが気持ち良かったのだが、彼は最後まで「運命」に振り回される。神に祈り懺悔している間に逃れられない死を迎えることになっていた。人を殺すに至る罪に内在する核心の善、この懺悔からドフトエフスキーの「罪と罰」でも問題となっている疑問も思い起こさせた。(興味あれば一読されよ)人間は自分が生きるに必要な「賭け」から生じる「運命」に翻弄される。そしてカオスの「運命」に賭けて前に進んでいく。

まるで伽話のようにオスカーの息子に語られるこの物語は子供には分からない難しい映画である。

三田(立野 の友人の映画マニア)

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