サリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」

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1.サリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」

この作品、劇場公開の宣伝文句に「官能」とか「エロス」とかいった言葉が飛び交っていたので、期待してでかけた男性がごまんといたそうな。ウソウソ、冗談。でも実は私はこのシゲキ的な宣伝文句にゲンナリして、映画館にいかなかったのだ。

じゃあ何ゆえビデオを見たのか。それゃもうあなた、監督がサリー・ポッターだからですワ。恥ずかしながらイギリスのこの女流監督についてはまったく知識がないのだが、何年か前に彼女の「オルランド」を見て以来、何やら気にかかる存在。しかも今回の作品ではご本人が主役を演じているとなれば、一見の価値あり。そこでビデオレンタルショップで見つけるや、さっそく借りてきたのでありました。

前振り長くてゴメンなさい。さてさて、妙に後を引く作品だった。モノクロ(一部カラー)で映像地味だしメッセージ性も強くないので、見終わって感動の嵐は起こらない。これがイチ押し、超オススメってわけでもない。けれどなぜか心に残る。残ってたゆたう。不思議な作品だ。

主人公は仕事に行き詰まった中年監督のサリー・ポッター自身。ある日彼女はタンゴのレッスンを思い立ち、先生の若き踊り手パブロとレッスンを重ねるうちに二人の気持ちは接近する。しかしパブロが引いてしまう。ダンスパートナーとしての彼女を大切にしたい、つまりは公私混同して関係をこじらせたくないってのが彼の言い分だ。ストーリーの3分の2ぐらいまでこの調子で、その上ポッターが形勢不利なので、表面的には「中年女が若い男に血迷ってもしょせんは無理なのね」という図式。ここまで見た限りだと、ありふれた恋愛映画にすぎず、ポッター女史ってこんなつまらない作品つくる人だったのかとガッカリせずにはいられない。

ところが残りの3分の1で状況が一転する。ポッターが彼を使って映画を撮る話になるが、今度はパブロの方が監督の目でしか自分を見てくれないとすねるのに対し、ポッターはあっさり言ってのけるのだ、これが私の愛の表現の仕方なのよと。テリトリーが移ったとたんに立場も逆転しちゃったわけである。

と書くと何だかオバサンの意趣返し話のよう。でも二つのエピソードから浮かび上がってくるのはむしろパブロとポッターの類似性だし、全体から見えてくるのはポッターという女性の生き方、そして映画に対する彼女の思いだ。

パブロもポーターも目の前の愛情や官能に溺れるよりは一歩引いてそれを自己表現に生かすタイプ。わざとそうするのではなく、そうせざるをえない。いわゆる芸術家の宿命か。ポッターは言ってしまえば愛より仕事をとったキャリアガールの姐御ってとこだが、そういう人たちを主人公にした小説や映画にありがちの「愛を捨て辛さに耐えて、でも私はこの道を選んだ」的な力みや諦めはなく、人生をポジティブに受け止め、楽しんでさえいる。潔い生き方ってのかな。しかもサリー・ポッター自身をあえて主人公にしたことで、かなり真実味が出ている。手法も人物像もおもしろいと思った(ただしラストシーンは、ポジティブにとるかネガティブにとるか解釈の相違が出るはず。ずるい言い訳だけど、私だって落ち込んでいるときに見たらこのラスト、ネガティブに取るかもしれないと思ったんですよね)。

ちなみに肯定的なものの見方は前作の「オルランド」にも共通していて、こちらはバージニア・ウルフ原作の不死の人オルランドの話だが、オルランドは時代によっては男にもなり女にもなりと変幻自在で、実に軽やかに各時代に対応する人物として描かれている。ウルフの原作を読んでないので偉そうなことは言えないけど、同じく不死の人を扱ったボーヴォワールの『人はすべて死す』に比べるとはるかに肯定的。ボーヴォワールが個にこだわるとすればポッターの視点はマクロで、このマクロさ、おおらかさ、そしてポジティブな捕らえ方がポッター映画の特徴のようだ。

最初の3分の2が冗長でこれについては不満が残る。行き詰っている仕事とそれに関わるシーンがやや観念的でこれも邪魔っけ。でも全体の映像は絵になる構図で、しかし無理に映像美を追求していないところがいい。「雨に唄えば」風、「フラッシュダンス」風のダンスシーンもあって、とくに前者は短いシーンだけど楽しめた。

quittan

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