セレブレーション

まず、ドグマ95というのを知らなくてはならない。勉強不足の方のために簡単に説明しておきます。

デンマークの4人の監督が集まり以下の十戒に対して「純潔の誓い」に署名した。
1)撮影はロケーション撮影であること。セット、小道具も禁止。つまり、実際の家屋、土地、風景を探してその場所で撮影するということ。
2)映像の中以外の音は禁止。その逆も禁止。必然的な音楽以外は禁止。(効果音が使えない。)
3)カメラは手持ち。但し、手でできない動きや静止の場合は許可される。(詳細不明)
4)映画は白黒ではなく、カラーで。人工的な照明は禁止。
5)オプティカル処理、フィルター使用は禁止。
6)表面的なアクションはしない。(武器、殺人は出さない。)
7)時間的、地理的な剥離は禁止。
8)ジャンル映画は禁止。(SFや、ホラーは勿論撮れない。)9)アカデミー35mmのフィルムフォーマットを使用する。
10)監督はクレジットにのせない。

これにより、彼らは監督の個性を排除した作品をつくることができるということになる。映画はアートとして作られるのではなく、真実を撮ることを目的とし、たとえフィクションであれその中の真実のみを描き出すことに固執する。リアルな映画といったほうが分かりやすいだろう。

ただし、どんな規制を課したとしても、監督や各スタッフにより明らかにまったく異なった作品ができあがり、それは1個人の趣味趣向が織り込まれることには間違いない。

それはまるで絵画のキュビズムのような物ではないだろうか。一定の法則にそって描かれた作品は一見同じように見えても、それぞれの作品がまるで異なった個性を持ち、作者の感情が織り込まれ現れてしまい、最終的に個別のアートとなっている。

思うに、彼らにとってこれはいっときのムーブメントであろうが、もし彼らがその枠の中で1、2本撮影した後その誓いを破りすて、全く自由に映画を撮影したとすると、その映画は今までの彼らの映画を超える作品となる可能性は秘めていると思う。マンネリの凝り固まった頭に変化をもたらし、アイデアをもたらす行動なのではないだろうか。

さて、ドグマの十戒は果たしてどれほどの意味があるのか?

ロケーション撮影に関しては、場所を探すという労力がいままでにまして必要となる。小道具も禁止なため、外見のみならず、その中身までを考慮しなくてはならなくなるので、さらに苦労することだろう。また反面、監督のイメージと違った場合でもあまりわがままを通す事もなく、簡単に場所を決定してしまう可能性もある。映画は常に予算を計算しているものだからだ。

ロケーションにしても、セットにしても監督達の文章(原作や、脚本)からのイメージを現実のものとして置きかえていく為、個人の趣味趣向が多くの比重をしめてくる。それをできるだけ排除する為には、あえて不自然になるセット、小道具をなくすということだ。よくあるのは、映画やドラマの中の部屋で、家具や置物をよく見ると高価なものばかり。いったいこいつは年収いくらなのかと思ってしまう。また、できすぎた雰囲気の風景、きれいすぎる街並み、汚らしく見えるようにした汚れ、こういった不自然さがなくなる。それぞれ、いいロケーションを探しだせれば問題ないのだが。

音楽をいれないことは分かりやすい行動だろう。音楽で感情表現を盛りあげたり、喜怒哀楽をつくりだすのではなく、そのように上手く演じればいいのだから。必要であれば、劇中本人達にレコードやラジオをかけさせればいい。ダンスシーンなどには必要だろうから。

カメラは手持ちであること。クレーンをつかっておおげさに、レールをつかってスムーズにとはいかない訳だ。だが、「手でできない動き(Any movement attainable in hand)は許可される」とはどういうことだろ。どんな場合が手持ちでなくてもいいのかわからないが、まあ基本的には原則手持ちカメラを使用するということのようだ。おおげさな表現がここでも省くかれる。カメラのこの変化は明らかに映画に表現されているのだが、見づらい場面をいくつか作り出してしまい、改善の必要がある項目だ。手ぶれがひどい場合は固定して撮影すべきだろうし、その場合は手でできない動きにはいるのだろうから。

白黒を禁止することは、カラーのなかに意図的に白黒を挿入し、イメージを盛りあげるために使用する手法を禁じているわけだが、これも意味があるだろう。現実を現実として撮影するような映画をつくる場合、この手法にたよる必要性がないからだ。ただし、同時に人工的な照明を禁止していること。これは解せない。露出に十分な光が得られない場合はカメラにライトを一つだけとりつけることが許されるが、この光量では明らかに不足してしまう。手ぶれはする、光量は不足するでは、観ていて不快感が生じてしまい、映画に対してまともな評価すらできなくなってしまう。また、そういったシーンは特徴的になりがちで、ドグマ95としての効果に逆行する。ライトは十分な光量が得られるようにすべきだ。

ただし、それならそのようなシーンを使わないようにするか、編集段階でカットすべき場所とみなされるのかもしれない。その厳しさが「ドグマ95」か。

オプティカル処理もフィルターも不自然な映像、または自然すぎる映像をつくりだす為の手法で、これをなくした上でいかにイメージ通りに撮影していくか、監督と撮影監督の力量が現れる。

アクションとか、時間的、地理的な剥離、ジャンル物となることを嫌ったこともドグマ95の意図に添う。あえて説明もいるまい。

さて、アカデミー35mmにこだわる理由とは?(残念ながら不明です。)現在、ヨーロッパビスタですら画面が狭く感じる訳だから、35mmという幅はかなり狭く感じる。単にこの違和感を制限のひとつとしているだけか?幅を選べることに対する制限の意味あいか?

「監督はクレジットにのせない。」というなら、チラシ、パンフレットにものせないように徹底してほしい。監督の名前が後先でわかれば、クレジットにのっている、いないの意味がない。監督にとって、映画関係者にとってクレジットにのることは誇りでもあろうが、十戒の10番になるだけあってあまり意味がない。どうせなら世界で作品公開終了後まで監督の名前をふせるところまで徹底して初めてドグマ95にとっての意味が生まれる。これは世界同時公開でもしない限り明らかに無理なことだろうが。あくまでも心意気としてとらえるべき戒律なのかもしれないが。

さて、映画評にもどる。チャレンジ精神とリアルではないが痛烈な人間批判がこもった内容に賞をとる要素は感じるが、その割にストーリと人物一人一人の魅力はたいしたことがない。

幼児期(少年少女期?)の子供に対して、父親が犯してしまった性的虐待(近親相姦?)のために、、、となるわけだが、撮影(ライティング、手持ちカメラ等)の問題から観るのに疲れてしまう。

実際この作品を106分にすること自体が無理がある。もうすこし凝縮できる程度の密度であり、意図的に長びかしていったということではなく、編集に特徴がなさすぎたのではなかろうか。時間的な剥離を犯さないために気をつけたせいか、展開を正確に追っていく姿勢の為か、演出がしつこく感じる。

というわけで、ここで11番目の制約を作るとすると、作品は1時間30分以内とすること。

また、役者の演技等にも制限を加えたほうが良かったのではなかろうか。家族ものの場合は本当の家族の役者をつかうとか、すくなくとも化粧はファンデーション禁止とか、それこそアイロンかけ(クリーニング)は自分の予算でするとか。マイクはカメラの近くに設置するというのもいいかもしれない。

半分冗談じみてきたので、この変で終わりにしましょう。

立野 浩超

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