ハリケーン・クラブ

作品紹介

母親が服役中の15歳のマーカス(ブレンダン・セクストン・サード)は、万引きをやってその日暮らし。彼は14歳のメレーナ(イザドラ・ヴェガ)と親しくなる。彼女の母親は、暴力を振るう父親に愛想を尽かして出ていってしまった。その父親が、子供を真っ当に育てたいがために、今度はメレーナを半ば暴力的に躾けている。 マーカスは、ニューヨークから抜け出したくて仕方ない。メレーナとマーカスは一緒にアラスカの親戚へ行こうとする。現状を逃れて、仲良く2人はいわば道行きである。ニューヨークという現実は彼等に無力感だけを与え、手応えのある将来を夢見させてくれない。そこで、見知らぬ土地へと旅立つのだが、それは現実からの逃避であり、江戸時代に見せた心中と同じ心理である。

映画は2人がアムトラックに乗って、シートに並んで腰掛けたところで終わる。「こんな事をしたら、父親に殺される」と父親の影に怯えての旅立ちだが、その父親はすでに死んでいる。もちろん、メレーナは父親の死をまだ知らない。その後でどんな場面が展開されるかは、観客の想像にまかされている。父親に殺されるかも知れないと言う危惧を抱いてまで、父親の元を離れていく娘。それが現実だとはいえ、何という悲劇だろうか。

観客は、この父親にはまったく同情しない。自分では愛情表現として、子供や奥さんに自分の価値観を押しつけているのだ。決して愛情がないわけではない。暴力が彼の愛情表現なのだ。むしろ、誰よりも強い愛情を持っているだろう。とりわけ奥さんに逃げられてからは、メレーナがこの世でたった1人の分身である。可愛くないわけがない。しかし、彼は相手の意志を大切にするという、愛情の表現の仕方を知らないのだ。自分の愛情だけを押しつけ、相手の願望を省みない。

古き良き家族が支配的だった時代には、男女の役割や家族の役割が決まっており、それに合わせて人は生活していた。男女で性別役割が固定していたし、立場で生き方が決まっていた。役割や立場から逸脱することは、将来の生活ができなくなることを意味していたから、親たちにとって子供を鋳型にはめることこそ良識ある教育だった。そのため、親たちはそのパターンにはまるように子供たちを育てた。そのために躾が厳しく言われた。暴力的な躾も肯定されたし、子供たちも渋々ながらそれに従った。この父親はそうした時代の価値観から逃れられない。彼が考える厳しい教育、それが子供の幸せを保証すると考えている。

今やそうした役割分業や立場でものを考える発想は役に立たなくなっている。それを子供たちは敏感に察知して、親が体現する既成の価値から逃れたくて仕方ない。それは具体的には家庭からの脱出だし、父親からの逃避である。メレーナにしても、父が死んだことを聞かされれば、動揺はするだろう。しかし、だから逃避行をやめるかと言えば、決してやめることはないだろう。

肉体関係を予感させながら、性交をともなった恋愛までいかない年齢。揺れ動く感情に翻弄されて、旅立つ15歳と14歳の2人。かつては旧弊な田舎の生活を嫌って、都会へと旅立ったものだが、今や都会の生活が子供たちに夢を与えない。マーカスは喘息持ちで、いつも吸入器を持ち歩いている。都会の生活者であり、都会を知っている子供たちには、都会が希望を与えてくれず、いまだ見ぬ場所は青空の田舎なのだ。しかし、田舎も近代化の波は押し寄せ、田舎にも彼等の求めているものはない。近代の生活は厳しい。子供たちは、それについて来ることができない。

近代は若者が担った。だから近代の象徴である都市へと、子供たちは旅立った。しかし、近代が先鋭化し、出口がないように感じ始めている。肉体労働の時代には、肉体的な劣者が差別され、オチコボレだった。頭脳労働が優位の社会では、劣等生は落ちこぼれる。しかも、頭脳労働の社会での規準がまだ見えない。弱い部分へと社会のしわ寄せが来る。自立した大人たちにとって、子供は必要不可欠のものではない。子供は親の癒しであり、いわばペットなのだ。子供は自己存在の手応えを求めて彷徨わざるを得ない。

モーガン・J・フリーマンという若い監督作品だが、繊細で現代的な感覚に優れた美意識にあふれている。平凡な日常に社会の歪みを鋭く見抜き、非凡な映画に仕立てているのは、サンダンス映画祭で入選するには充分な力量である。「マクマレン兄弟」と同じ系列に属する映画だが、対象とする年齢がもう少し低くて、子供の自立というきわめて現代的な視点である。

1997年のアメリカ映画。

匠 雅音