プライベート・ライアン

作品紹介

米国製戦争映画は、戦意高揚映画と反戦映画に分類できるが、両者の違いはどこにあるのだろうか。私は、単純に、見終わった後にスカッとする作品が前者、見終わっても何かが重苦しく残り、あんな戦争なら俺は行くのは御免だな、と思わせる作品は後者だと考えている。戦争をリアルに描くと、残酷な描写が多くなり、後者に近づいてくる。

その中間の作品として、戦争そのものは認めなくとも、それに参加した人々(しばしば、観客の父や祖父と同じ世代の人々であったりする)は基本的に善良な普通の人々であり、時として勇敢でもあった、とする作品もある。この第三の作品に流れている気分は、第二次大戦も遠くなり、冷戦も過ぎて、もはや血を流すことに疲れ始めたアメリカ人の気分でもある。「プライベート・ライアン」の冒頭と末尾にはためく色褪せた星条旗(色鮮やかな星条旗であってはならない)がそれを象徴している。

多くの人が指摘するように、この映画の白眉は、酸鼻を極めるノルマンディー・オマハビーチの上陸戦である。上陸艇の中で恐怖と船酔いに苦しみ、やっと扉が開いて上陸かと思えば身動きもできない内に狙い撃ちされ、あわてて海に飛び込めば装備が重すぎて溺死、やっと浜辺にたどり着いても銃砲弾に手足を吹き飛ばされる。腕を切断された兵士は、落ちた腕を抱えてうろうろ歩き、ヘルメットで銃弾が止まって、幸運に感謝した兵士は、次の瞬間に頭の同じところを撃ち抜かれる。やっとトーチカを制圧した兵士たちは、降伏したドイツ兵士を容赦なく射殺する。

このような描写を見せられたら、若者十人の内九人までは、戦争など御免だと思うだろう。たとえ、その後に、勇敢で比較的ヒューマンな兵士たちの行動が描かれているとしても。

なぜ、今、このような作品がつくられた(つくられることを許された)のか。もはやアメリカ人は、自分自身のため以外には血を流さないことを決意したからではないか。もしまた、血を流さなければならない事態が起こりうるとしたら、これほど恐ろしげな戦争描写は許されないだろう。事実でも、知らない方がいいことはある。

自由の木は、愛国者の血で育つという。しかし、今、アメリカ人は、父祖たちのように戦い血を流すことはできないと悟った。人権問題で交渉や制裁をすることはあっても、また、テロリストにミサイルを撃ち込むことはあっても、血は流さない。もう、父祖たちのように、生きて死ぬことはできない。そうするには、戦後五十年の間に、自分たちはあまりにも知りすぎてしまった。

だから、今、勇敢だった父祖たちを鎮魂し、自分たちが同じようになれないことを詫びるために、整然と立つ十字架の列を暴いて、彼らの地獄を追体験させ、そして再び彼らの魂をを十字架の列に戻したのである。もはやこれほど多くの十字架の列が立つことがあってはならない。映画の最後に、無事帰還を果たしたライアンが戦死者の墓の前にたたずむ。後方には若い家族たちもいるが、カメラの焦点はライアンのみに合っている。若い家族と戦死者たちとの間に通うものは、もはやない。生きることは考えられても、何かのために死ぬことは考えられないからである。老いたライアンもその点では同じかもしれない。彼らの上でひるがえるのは、色褪せた星条旗がふさわしい。

高野 朝光