ノッティングヒルの恋人

ある日、映画を観ていて、ふと、こんなことを思ったことが?

こんなこと起きるはずがない、どうせこの先の展開はこうだよ、こんなの出来すぎだ、やっぱりハッピーエンドか、・・・・・。

まさにこれです。しかし、この映画はラブコメディで、そして、この映画はハリウッドである。これらを理解して観る人なら、きっと面白いはず。さながら現代版「ローマの休日」(ラストは全く違う方向だが)。

そして何よりも、この作品はジュリア・ロバーツの映画である。ファンであるならなおさら必見です。で、これが終わったらすぐ「プリティブライド」です。

山下 裕

ロックストックアンドトゥースモーキングバレルズ

今のイギリス映画には大外れがない、・・・こんな言葉を最近耳にする。

ストーリー人物など全体が軽いテンポである。そして、軽いテンポで人も死んでいく。これなら、軽い頭の人でも楽しめる。だからか、ハリウッドでもまた作られる。

「トレスポ」的であり、「シューティングフィッシュ」的であり、「シャロウグレイブ」的でもある、よく見かけるような最近のブリティッシュムービーである。

山下 裕

マトリックス

聖書や理論数学を下敷きにし、ギリシャ神話や不思議の国のアリスを引用して、実に複雑な世界を創っている。物語が終盤へと進むにつれて、予言者ヨハネ、裏切者ユダ、キリストの奇跡と死そして復活と、まったく聖書をなぞっていく。これは科学が先端的にってきた現代に、時代が精神性を要求し宗教への郷愁を孕んできたことの反映だろう。現実が仮想空間だという設定は、「トゥルーマン・ショー」を思い出させるが、ヒューマンなタッチの「トゥルーマン・ショー」とは異なり、この映画は無機質でばりばりのSFXである。

手や足が切断されても、あたかもその手や足があるかのように痛いと感じるという。それは脳が、かつてあった手や足を覚えており、その部分が痛さを感じるから、すでに失ってしまった手や足にも痛さを感じるらしい。だから、脳内を走る電気的な刺激と脳を含めた肉体を別のものと考えることが可能になる。しかし、仮想社会でも人間が実感をもって生活している以上、それが現実ではないとは言えないだろう。この映画は全面的な整合性があるわけではないが、論理的な矛盾を差し引いても充分に楽しめる。

この映画の凄いところは、CGIやSFXを多用して仮想空間の話にしていながら、その背景には精神的な物語がたっぷりと隠されていることである。ヒロインの名前が三身一体のトリニティ(キャリー=アン・モス)だったりだけではなく、まずネオという設定が新たな社会の救世主である。コンピューターという原罪で汚染された人間を救うのが、またコンピューターオタクの人間である。これはキリスト教がユダヤ教から生まれながら、ユダヤ人とは一線を画していることによく似ているし、単なる過去への回帰とも違うスタンスである。そうでありながら、キリストのように救世主が人間を救うのではない。ネオに救世主の役をやらせながら、現世を救いきれない終末は、むしろユダヤ教的な世界ですらある。

演技の下手なキアヌ・リーブスには、喜怒哀楽を微妙に表現せずに済むこうした映画がはまり役である。また、ヒロインを演じたキャリー=アン・モスが、無機質な映画の雰囲気と合って、とても格好良かった。そして、エージェント・スミスを演じたヒューゴ・ウーィービングの演技が抜群に上手かった。

ラリーとアンディー・ウォシャウスキー兄弟は、「バウンド」を1本撮っただけのほとんど新人である。これほど金のかかった映画を、それほど実績のない若い監督に、ハリウッドは良く撮らせるものである。若い監督でも、上手い売り込みと才能があれば、大金を投資するアメリカの体質がこうした映画を作らせるのだろう。それにしても、アメリカの監督たちはよく勉強している。それは画面の端々から充分に感じる。彼等の愛読書に、ゲーデルが入っているというのも理解できる。

匠 雅音

マトリックス

この映画はSFXものに当たるかも知れないが、スターウォーズのような映画を毛嫌いする人間でも、一見する価値はありそうだ。

このコマーシャルも上手くできており、この映画にはしっかりとしたストーリーがあるが、この広告を見た限りではそれは分からない。むしろこの作品で使われているCGを駆使した部分はこのコマーシャルで全て見れてしまうと言っても過言ではないが、もちろんこれは映画館で見たいものだ。

この作品を見ていくと、始めのうちは主人公の男性が混乱するのだが、これは見ている僕らも混乱し、どうなっているのか?と言う気持ちになる。後半の部分ではストーリーが見えてきて単調になりがちだが、この映画の特徴でもある最新のSFXが使われより楽しめる。

このストーリー、確かに新しいのだが、こういう近未来的な物語にはどこか共通するものがあるような気がする。昔見たアニメーションの映画の「地球へ」とかテレビの銀河鉄道009の哲朗が永遠の生命を手に入れるために旅をするが、それはただ単に建造物の一部にされてしまうだけというのだ。

今回の作品で、キアヌ・リーブスは復活したように書かれているが、はまり役なのかどうか分からない。確かにコンピューターのプログラマーという点では良いのだが、カンフーのシーンはもう少し迫力が欲しかった。しかし、その穴を埋めるべくキャリー・アン・モスやロレンス・フィッシュボーンがアクションを補完している。

ところでこの監督、ウォシャウスキー兄弟なんて今までほとんど聞いたこと無いはずだが、それでお金がかかるSFXの作品を撮れたと言うこともかなり驚きである。多分次回作も期待されているだろうし、物語もそれを臭わせる終わり方をしている。

彼らがもっとビッグになって、帰ってくることを願いたい。

マトリックス

マトリックスとは何か?
matrix
1.母体、基盤 2.母型 3.[電]マトリックス、行列 4.[電算]マトリックス(入力導線と出力導線の回路網)<リーダーズ英和辞典>よりこんな意味である。

予告編は何回見ただろうか。でも・・・ついに、「マトリックス」を観る時が来た。そして、何かが分かる時が来た・・・

・・・素直に面白い。何よりもカッコイイ。かといって、ハリウッドの近未来映画によく見られがちな、空虚な単純さはない(・・・ストーリーが少々ややこしい、深いというのか)。とても広がりのある世界を体感する。

さらにアクションは、CGやワイヤースタントなどを織り交ぜながら、ストレート、スピーディー、そして強烈なインパクト。そして何でか、カンフーや柔術が出てきて、しまいには、アクロバットや空を飛ぶ始末。・・・何でもあり。

映像に関しては、一つ一つのショットがきまっていて、とても絵になる。CGの使い方も効果的で、映画にうまく溶け込んでいる(現実の世界であるネブカドネザルはどことなく「エイリアン」的では)。そして、アクションシーンの編集についても、実に上手い。・・・目を奪われる。

個人的に特に印象に残るシーンは、何といってもビルでの銃撃戦。とにかく撃って撃って撃ちまくり、さらにはスローモーションの乱れ撃ち。側転しながらマシンガンを撃ちまくるショットには、思わずイッツクール。ここでは、もはやサム・ペキンパーやジョン・ウーもかすんでしまう。・・・圧倒される。

役者に関して言えば、特にキャリー・アン・モスがすばらしい存在感。スタイルが良いので、黒ずくめのコスチュームも良く似合い、アクションについても、動きが美しく、様になっている。もちろん、キアヌは言うまでもなく。・・・文句なし。

で、・・・マトリックスとは何か?

映像的な部分でのマトリックスについては、実は・・・、すでに映画を観る前に大部分は分かっていた・・・。

要するに、私にとっての目新しい印象深い映像は、もう予告編でかなり見てしまっていたのであった・・・・・・。

映画を観終わり、ふと・・・、続編とは果たして期待できるのか?どうも大味になりそうなストーリー展開。さらにこれを上回る、インパクトのある映像を果たして見せてくれるのかどうか・・・・・・。ウォシャウスキー兄弟さん、どうか頑張ってください。

山下 裕

desserts デザート

ジェフ・スターク監督ユアン・マクレガー主演
99年ベルリン映画祭・短編映画部門・銀熊賞作品
ビスタサイズ・カラー・4分間の短編

ストーリー(お目にかかる機会がないと思われるため、完全に解説します。)

ユアン・マクレガーが波打ちぎわの砂浜を口ずさみながら歩いている。画面は、青空と砂浜が上下半分に別れている。

そこにふと、エクレアが押しているのを見つけた。音楽は鼓動を表すかのような曲。臭いをかぎ、生クリームをなめてみるとどうやら新鮮でうまそう。

ついつい、ばくっとかぶりつくと突然砂浜にロープが現れる。そして、そのエクレアに隠れていた釣り針がユアンの頬を突き破る。

そのままロープに引かれてユアンはもがきつつも波の中に消えていく。釣られてしまったのだ。

最後に、彼の足跡は波に打ち消されてしまう。

感想

人が釣られてしまうという皮肉がおもしろい。セリフはなく、最後にユアンの叫び声だけが響き渡る。

ユアンの表情は多少大袈裟だが、短編でこういった一発芸的な話には効果的に印象を高める。

立野 浩超

金融腐蝕列島:呪縛

「金融腐蝕列島:呪縛」
1997年の第一勧業銀行(映画の中では、朝日中央銀行ACBと改名されている)の総会屋への融資をめぐり、揺れに揺れた銀行内の様子を描いたもので、重厚で本格的な映画に仕上がっている。経営陣の混乱・無責任さを目にした若手4人が、第一勧銀を再生するために、身をなげうって活動を始める。この映画は、経営陣の腐敗を主題にしているのではなく、北野(役所広治)片山(椎名桔平)松原(中村育二)石井(矢島健一)の若手4人組、なかでも北野の銀行再生が主題である。

ある組織が存亡の危機に立たされたとき、外部にいる人間たちは、当事者たちの苦悩を無責任にあげつらうことができる。しかし、内部にいる人間にとっては事情は大違いである。その内部にいる人間とても、事実の把握に奔走することは外部の人間と同じであるが、内部の人間の第一の関心は、組織の維持であり再生である。とりわけ、その組織を愛し、その組織の崩壊を座視できない者たちは、外部の圧力のなかで組織を再生させるための行動に出る。それは健全な組織であればあるだけ、再生のための行動が強力になされる。

組織が円滑に動いているのは、その組織が社会に上手く適合しているからである。ところが一度歯車が狂い、没落に向かい始めると、上手くいっていた原因がすべて負の要因になる。第一勧銀は、第一銀行と勧業銀行が合併してできた銀行だから、頭取と会長がそれぞれの出身母体から互選されていた。それがこの銀行の温厚な行風を作っていたが、逆風下になるとそれが無責任体制となり、誰もことの本質に立ち向かわなくなる。今まで長所だったことが、すべて欠点となってしまうのである。

第一勧銀は、幸せな銀行だった。無責任な役員たちにたいして、自行を愛する社員をたくさん抱えていた。そして、全役員を解任し、新たな出発に向けて、新役員体制を作ることができた。その過程を映画は、とても肯定的に描いていた。第一勧銀は株主総会の公開ほか、情報開示する姿勢を打ち出すなど、次々に改善策が打たれる。この事件を最初から追っていたカメラマンに、第一勧銀に口座を開こうかなと言わせている。不祥事を扱いながら、第一勧銀の宣伝映画になっていた。

映画としてみても、いまだ日本映画の良き伝統は死に絶えていないことを知らせてくれた。丁寧に作られたセット、惜しみない物量、充分なライティング、物語にあった発色など、職人的な映画作りは健在である。実に丁寧に良く作り込んである。最近の日本映画では出色であろう。

東映が力を入れたせいだろうが、力のある役者たちがたくさん出演している。面白いことに経営者たちの人物像が、自殺した久山(佐藤慶)を除いて個性がないのも、いかにも日本的な企業風景である。彼等は、くっきりと際だった個性を持たず、誰が誰だか判らない。役員のなかで誰かと誰かを入れ替えても、気がつかないくらいによく似た人たちである。そのなかで、最高顧問の佐々木(仲代達也)に悪のカリスマ性を演出するために、彼の足を不自由にさせたように思う。健常者のままでは、いくら仲代達也でも悪人という強烈な個性を、あれほどに演技できなかったかも知れない。

仲代達也や佐藤慶など年寄りたちの存在感があるのに対して、根津甚八など中年の俳優たちの存在感が希薄である。それは旧来の農業的人間像から、浮遊する情報的人間像への変転を表しているのであり、今後ますます軽い人間が多くなっていくだろう。土着的な存在感とは違った意味での、透明な存在感が生まれてくるに違いない。

ブルームバーグという実在のアメリカの放送局が、実名で映画に全面的に協力し、プレスクラブの中にあるスタジオや、アンカーウーマン和田(吉村麻由美)の教育を提供していた。吉村麻由美のアンカーウーマンは女性の社会進出をたびたび口にし、ややきれい事な感じがしたが、それでも日本のキャスターとは違った責任感を感じた。ところで、観客の年齢層が非常に高く、中高年それも銀行員と思われる風体の人たちが多く、若い人たちの多いいつもの映画館とは違って、なんだか不思議な雰囲気の観客席だった。

原田真人監督、1999年の日本映画。

匠 雅音

エイプリル

1998年 /イタリア・フランス合作/カラー/78min’98年カンヌ国際映画祭正式出品作品・大阪ヨーロッパ映画祭正式招待作品

監督・脚本・製作・主演:ナンニ・モレッティ出演:シルヴィオ・オルランド、シルヴィア・ノノ、ピエトロ・モレッティ

ストーリー’94年3月26日。選挙結果は右翼の圧勝。モレッティ、初めてマリワナを吸う。’95年、妻が妊娠。それ以来彼の生活は一新する。まず、名前。胎教として見る映画の選択。同時に映画監督としての構想もまとめなくてはならない。

そして、ついに’96年4月18日。待望の赤ちゃんが誕生する。息子、ピエトロだ。同時にこの日はイタリア史上初の左翼政権の勝利の日でもあった。早速選挙に向けてドキュメンタリーを撮ろうとするが、気がのらない。が、一方で以前から温めていたミュージカルの企画も捨てがたい・・・。

コメント遂に、あの我侭で独善的で、それでいて憎めないモレッティがパパになった!その心を反映するように、赤をふんだんに使ったカラフルな映像、ポップな音楽・・。究極の親馬鹿映画と思いつつも、見ているこちらまで幸せな気分になってくる。息子とのコラボレーション?も抜群で、ピエトロの可愛らしさや、モレッティの肝っ玉母さんの登場もほのぼのしている。

「4月生まれはアル・パシーノとエマ・トンプソンか。さて、フェデリコは立派すぎるけど、マッテオは響きがいい。親子で同じ名前は禁止されてるし・・・」

「『ヒート』は300人も殺すからよくないし、『ストレンジ・デイズ』は駄作だから性格悪くなりそうだし・・・」

名前や胎教映画の選択の台詞は傑作だ。親の心は世界共通。しかし、出産寸前で何と、パタニティブルー?になってしまう。「私が分娩室に入ったら励ましてね」「うん、分かった。でも、僕の事は誰が励ましてくれるの?」そんな彼の姿を笑いつつも、世のプレパパの本音だろうと思う。

よく、「子供の誕生は人生観を変える」というが、ピエトロ誕生後はモレッティの視野も、妻や親との距離など、大分変わってきたようだ。

それにしても、彼のこうした私生活の波を、もろに受けてしまうのが、忍耐強い?スタッフ達。「やっぱり気が乗らないからや~めた」。それでも、菓子職人のミュージカルシーンはとても可愛らしい。実際に映像化してほしいものだ。

が、彼の中では当分、自らの人生の傑作、ピエトロ君が主役の座を独占することだろう。こんな親を持ったピエトロの将来も楽しみ。

赤ちゃん狂想曲のラストの方で、対称的に静かなポ-川の場面。この辺、モレッティの作品つくりの巧さを感じさせる。

幸せな気分になりたい方、是非見てくださいね。

鳥野 韻子

あの娘と自転車に乗って

1998年/キルギスタン=フランス/カラー/ヴィスタ/81分

1998年ロカルノ国際映画祭銀豹賞
1998年ユーラシア国際映画祭グランプリ
1998年ヴィエンナーレ国際映画祭観客賞
1998年東京国際映画祭アジア映画賞特別賞
1998年モントリオール国際映画祭正式出品作品
1999年サンダンス国際映画祭正式出品作品
1999年ロッテルダム国際映画祭正式出品作品

監督:アクタン・アブディカリコフ出演:ミルラン・アブディカリコフ、アルビナ・イマスメワ

腕白なベシュケンピールの成長を、美しい田園風景の中に描く、監督の少年期の回想録的作品。ほとんどのモノクロ映像の中にところどころ、鮮烈なカラーを挿入した独特の映像が印象的。

ストーリーの紹介はPFFレポートで、簡単に触れているので、バックナンバー、ScreenKiss Vol.34をご参照ください。今回は、会場での監督のティーチ・インの模様を交えながら、ご紹介します。

さて、上記のように各国際映画祭で評価の高かった作品である。キルギスタン国内では’99年5月から一般公開し、大成功をおさめたそうだ。何しろ、監督は国内唯一のフィルムメーカーであり、国の独立後は予算不足から国産映画がなかなか製作出来ない状況だったから、アメリカ映画が多かった中、久しぶりの自国映画だったのだ。

最後のシーンは、あやとりをしている、手のクローズアップだ。一連のあやとり文化圏というのがあるらしいが、日本人の自分としては、ここにきて「そうか、何故か懐かしい匂いが感じると思ったら、同じアジアなんだ」という、しみじみとした思いに浸ってしまう。その位、すんなり身体にしみ込む映画なのだ。

監督は、この辺を「映画のリズムや、イメージを中心に据えた演出法がアジア的なのかもしれないが、この作品に関して言えば、台詞を最小限にして、画面によりその場の空気を観客に理解させる、という点が特異だろう」とコメントしている。

だが、やはりアジア以外の国々からも高い評価があるのは、そういった点だけでない魅力があるからだと思う。世界共通の、特に男の子の思春期。そして、主役の男の子に実子を用いながら、そこに監督自身を投影することによって生じる温かい眼差しがあるからだと思う。

原題の「ベシュケンピール」は勿論主役の名前だが、この言葉自体が「5人の老婆」を表し、英語のサブタイトに『Adopted Son』とあるように、養子縁組の際に村で尊敬されている老婆の事なのだ。3人だとコシュケンピールといい、彼女等による悪霊祓いを受けた子供を、悪霊から守る為に名前にしてしまう事もある、という。

主人公は、ある日自分の出生を知り、動揺するのだが、これはかつての監督自身の姿でもある。その強烈な思い出も含め、カラーによる演出部分は初恋など、彼の人生での劇的な場面に採用されている。

さて、登場するたくさんの子供達だが、ほとんどが『現地調達』の子だという。首都から約300mのロケ地ではそこでの住民の生活を大事にして、農作業も手伝いながらの撮影だったが、そのお陰か、彼らもきちんと「仕事」をこなしてくれたらしい。ギャラに関しての質問は『あまりに低いので『内緒なんだそうだ。なお、撮影には約1年間が費やされている。

邦題にある「自転車」は実は恋の重要な小道具。好きな女の子を、わざと後部座席をはずした自転車で迎えに行って、自分とハンドルの間に座らせる。そして上り坂になれば・・・という男の子の可愛い下心なのだ。監督の息子、ミルラン君もこの場面の撮影が一番のお気に入りだったとか。

色彩と同様、独特だったのが音楽。担当はヌルラン・ニシャーノフというキルギスの作曲家だが、自然の音とダイアローグだけの不思議なサウンドなのだ。

話ぶりも実に穏やかで、終始にこにこしている監督。彼を見ていると、何故かほっとする温かさのある人柄だった。彼はミルラン君の成長に合わせ、次回作を準備中とのことだ。

最近でこそ、あまりありがたくないニュースで、名前を耳にする事が多くなった国だが、キルギスタンの映画など滅多に目にする機会はないにも関わらず、自分のルーツを見るような、不思議な作品だ。

鳥野 韻子

神さまへの贈り物

イラン映画としての評価:★★
キネカ大森・イラン映画特集2より

この映画は、96年の作品。英題(おそらく現題直訳)は、「BAG OF RICE」といい、米袋のこと。(そのままの方がいい)

日本ではお米といえば10kg程度のビニール袋か、丈夫な紙の袋だが、イランなどの国では現在ナイロン繊維の麻袋のような大きい袋を使用するのが一般的だろう。(ちょっとしたことだが、国により違うものだから)

映画の中ではこの米袋を1000リアルで買う場面がある。(約20円相当)また、少女ジェイランがおじさんからもらうコインは100リアル。(何も買えない)

この映画は日本との合作と歌ってあり、どこまで日本人の手が加えられているかが不明だが、イラン映画といえば…といった要素で作られている。(日本はお金を出したかけか?)

つまり、イラン映画といえば、少年少女、ミニロードムービー、うろうろして問題が起こる。その度に誰かが交わり、最後は家に帰る。(それはキアロスタミの映画か)

この映画、まずは幼い姉妹がパンを買いに行くシーンから始まる。(いきなり喧嘩している)パン屋の列、焼き立てを順番待ちして買う姿、そのまま何枚かを手でもって帰る姿。(ごく普通の情景)

また家の回り、パン屋の道すがら、どこもかしこも真中に溝があり、ちょろちょろと水(下水か雨水か)が流れている。(これも当たり前の風景)イランというのはスキー場があるくらいだから、冬は寒い。まだ学校に通えない歳ごろの妹ジェイランは毛糸の帽子をかぶっている。(その姿がかわいらしい)

となりのおばあさんマスメさんのめがねもリアルだ。(小道具ではなく、自前の物としか思えない)

その後の粗筋はなんだかんだと話しは進み、となりのマスメさんがお米を買いにいくのに、ジェイランは一緒にでかける。ジェイランがだだをこねて、無理やり一緒にいくことになったのだが。そしてバスにのり、町中をうろうろし、さまざまなトラブルにみまわれる。自分達で招いているとしか思えないトラブルなのだが。その合間で街の風景がうつしだされ、いくつものモスク、レリーフなどが映し出される。(これがきれいで、見ごたえある)最後はお決まりに解決し、家に帰って幸せに幕を閉じる。(笑顔で終わり)

この映画を細部まで見ていると、さまざまな興味深い物を目にする。(まるで観光でもしているかのごとく)

まずは、家でお茶を出す場面、後ろの方にティーポットが置いてある奇妙な形の湯沸かし器。恐らくどこの家でもこれを持っているだろう。下にガスを当て、真中の丸みを帯びたあたりに水をいれ沸かす。真中あたりに蛇口が付いているのでポットにそのままの状態でお湯を注げる。そのポットは最上部においておけば、余熱で保温できる。(いくらいってもイメージは難しいだろう)

ジェイランがしきりに公園に行きたがるが、実際宗教的に娯楽がそれほど多い国ではないためなのか、町中に大きな公園がいたるところにあり、老若男女が週末にあたる金曜日には公園にくりだす。(木、金曜日が、日本の土日曜日にあたり休みになる)

道路の端に両手で箱を支えるような形をした六角形の黄色い箱が写るが、これは募金箱。私がテヘランにいった時、「いったい誰がいれるものか?」といった矢先に中年の男性がコインをいれていた。(機能しているらしい)

映画の話題というよりもイランの話題になってしまったので、映画に関していえば、多少オーバーな演出が目障りに感じる。カメラアングルもちょっと臭い。もうすこし素直に撮影しておけばよかったのに。

最後に、先日キネカ大森で見た時にフットライトのカバーが破損していて、電球の明かりがそのまま目に入るため、至急修理してほしいと思ったものだが、本日9月23日までにまだ修理されていなかった。(残念)

立野 浩超