金融腐蝕列島:呪縛

「金融腐蝕列島:呪縛」
1997年の第一勧業銀行(映画の中では、朝日中央銀行ACBと改名されている)の総会屋への融資をめぐり、揺れに揺れた銀行内の様子を描いたもので、重厚で本格的な映画に仕上がっている。経営陣の混乱・無責任さを目にした若手4人が、第一勧銀を再生するために、身をなげうって活動を始める。この映画は、経営陣の腐敗を主題にしているのではなく、北野(役所広治)片山(椎名桔平)松原(中村育二)石井(矢島健一)の若手4人組、なかでも北野の銀行再生が主題である。

ある組織が存亡の危機に立たされたとき、外部にいる人間たちは、当事者たちの苦悩を無責任にあげつらうことができる。しかし、内部にいる人間にとっては事情は大違いである。その内部にいる人間とても、事実の把握に奔走することは外部の人間と同じであるが、内部の人間の第一の関心は、組織の維持であり再生である。とりわけ、その組織を愛し、その組織の崩壊を座視できない者たちは、外部の圧力のなかで組織を再生させるための行動に出る。それは健全な組織であればあるだけ、再生のための行動が強力になされる。

組織が円滑に動いているのは、その組織が社会に上手く適合しているからである。ところが一度歯車が狂い、没落に向かい始めると、上手くいっていた原因がすべて負の要因になる。第一勧銀は、第一銀行と勧業銀行が合併してできた銀行だから、頭取と会長がそれぞれの出身母体から互選されていた。それがこの銀行の温厚な行風を作っていたが、逆風下になるとそれが無責任体制となり、誰もことの本質に立ち向かわなくなる。今まで長所だったことが、すべて欠点となってしまうのである。

第一勧銀は、幸せな銀行だった。無責任な役員たちにたいして、自行を愛する社員をたくさん抱えていた。そして、全役員を解任し、新たな出発に向けて、新役員体制を作ることができた。その過程を映画は、とても肯定的に描いていた。第一勧銀は株主総会の公開ほか、情報開示する姿勢を打ち出すなど、次々に改善策が打たれる。この事件を最初から追っていたカメラマンに、第一勧銀に口座を開こうかなと言わせている。不祥事を扱いながら、第一勧銀の宣伝映画になっていた。

映画としてみても、いまだ日本映画の良き伝統は死に絶えていないことを知らせてくれた。丁寧に作られたセット、惜しみない物量、充分なライティング、物語にあった発色など、職人的な映画作りは健在である。実に丁寧に良く作り込んである。最近の日本映画では出色であろう。

東映が力を入れたせいだろうが、力のある役者たちがたくさん出演している。面白いことに経営者たちの人物像が、自殺した久山(佐藤慶)を除いて個性がないのも、いかにも日本的な企業風景である。彼等は、くっきりと際だった個性を持たず、誰が誰だか判らない。役員のなかで誰かと誰かを入れ替えても、気がつかないくらいによく似た人たちである。そのなかで、最高顧問の佐々木(仲代達也)に悪のカリスマ性を演出するために、彼の足を不自由にさせたように思う。健常者のままでは、いくら仲代達也でも悪人という強烈な個性を、あれほどに演技できなかったかも知れない。

仲代達也や佐藤慶など年寄りたちの存在感があるのに対して、根津甚八など中年の俳優たちの存在感が希薄である。それは旧来の農業的人間像から、浮遊する情報的人間像への変転を表しているのであり、今後ますます軽い人間が多くなっていくだろう。土着的な存在感とは違った意味での、透明な存在感が生まれてくるに違いない。

ブルームバーグという実在のアメリカの放送局が、実名で映画に全面的に協力し、プレスクラブの中にあるスタジオや、アンカーウーマン和田(吉村麻由美)の教育を提供していた。吉村麻由美のアンカーウーマンは女性の社会進出をたびたび口にし、ややきれい事な感じがしたが、それでも日本のキャスターとは違った責任感を感じた。ところで、観客の年齢層が非常に高く、中高年それも銀行員と思われる風体の人たちが多く、若い人たちの多いいつもの映画館とは違って、なんだか不思議な雰囲気の観客席だった。

原田真人監督、1999年の日本映画。

匠 雅音

エイプリル

1998年 /イタリア・フランス合作/カラー/78min’98年カンヌ国際映画祭正式出品作品・大阪ヨーロッパ映画祭正式招待作品

監督・脚本・製作・主演:ナンニ・モレッティ出演:シルヴィオ・オルランド、シルヴィア・ノノ、ピエトロ・モレッティ

ストーリー’94年3月26日。選挙結果は右翼の圧勝。モレッティ、初めてマリワナを吸う。’95年、妻が妊娠。それ以来彼の生活は一新する。まず、名前。胎教として見る映画の選択。同時に映画監督としての構想もまとめなくてはならない。

そして、ついに’96年4月18日。待望の赤ちゃんが誕生する。息子、ピエトロだ。同時にこの日はイタリア史上初の左翼政権の勝利の日でもあった。早速選挙に向けてドキュメンタリーを撮ろうとするが、気がのらない。が、一方で以前から温めていたミュージカルの企画も捨てがたい・・・。

コメント遂に、あの我侭で独善的で、それでいて憎めないモレッティがパパになった!その心を反映するように、赤をふんだんに使ったカラフルな映像、ポップな音楽・・。究極の親馬鹿映画と思いつつも、見ているこちらまで幸せな気分になってくる。息子とのコラボレーション?も抜群で、ピエトロの可愛らしさや、モレッティの肝っ玉母さんの登場もほのぼのしている。

「4月生まれはアル・パシーノとエマ・トンプソンか。さて、フェデリコは立派すぎるけど、マッテオは響きがいい。親子で同じ名前は禁止されてるし・・・」

「『ヒート』は300人も殺すからよくないし、『ストレンジ・デイズ』は駄作だから性格悪くなりそうだし・・・」

名前や胎教映画の選択の台詞は傑作だ。親の心は世界共通。しかし、出産寸前で何と、パタニティブルー?になってしまう。「私が分娩室に入ったら励ましてね」「うん、分かった。でも、僕の事は誰が励ましてくれるの?」そんな彼の姿を笑いつつも、世のプレパパの本音だろうと思う。

よく、「子供の誕生は人生観を変える」というが、ピエトロ誕生後はモレッティの視野も、妻や親との距離など、大分変わってきたようだ。

それにしても、彼のこうした私生活の波を、もろに受けてしまうのが、忍耐強い?スタッフ達。「やっぱり気が乗らないからや~めた」。それでも、菓子職人のミュージカルシーンはとても可愛らしい。実際に映像化してほしいものだ。

が、彼の中では当分、自らの人生の傑作、ピエトロ君が主役の座を独占することだろう。こんな親を持ったピエトロの将来も楽しみ。

赤ちゃん狂想曲のラストの方で、対称的に静かなポ-川の場面。この辺、モレッティの作品つくりの巧さを感じさせる。

幸せな気分になりたい方、是非見てくださいね。

鳥野 韻子

あの娘と自転車に乗って

1998年/キルギスタン=フランス/カラー/ヴィスタ/81分

1998年ロカルノ国際映画祭銀豹賞
1998年ユーラシア国際映画祭グランプリ
1998年ヴィエンナーレ国際映画祭観客賞
1998年東京国際映画祭アジア映画賞特別賞
1998年モントリオール国際映画祭正式出品作品
1999年サンダンス国際映画祭正式出品作品
1999年ロッテルダム国際映画祭正式出品作品

監督:アクタン・アブディカリコフ出演:ミルラン・アブディカリコフ、アルビナ・イマスメワ

腕白なベシュケンピールの成長を、美しい田園風景の中に描く、監督の少年期の回想録的作品。ほとんどのモノクロ映像の中にところどころ、鮮烈なカラーを挿入した独特の映像が印象的。

ストーリーの紹介はPFFレポートで、簡単に触れているので、バックナンバー、ScreenKiss Vol.34をご参照ください。今回は、会場での監督のティーチ・インの模様を交えながら、ご紹介します。

さて、上記のように各国際映画祭で評価の高かった作品である。キルギスタン国内では’99年5月から一般公開し、大成功をおさめたそうだ。何しろ、監督は国内唯一のフィルムメーカーであり、国の独立後は予算不足から国産映画がなかなか製作出来ない状況だったから、アメリカ映画が多かった中、久しぶりの自国映画だったのだ。

最後のシーンは、あやとりをしている、手のクローズアップだ。一連のあやとり文化圏というのがあるらしいが、日本人の自分としては、ここにきて「そうか、何故か懐かしい匂いが感じると思ったら、同じアジアなんだ」という、しみじみとした思いに浸ってしまう。その位、すんなり身体にしみ込む映画なのだ。

監督は、この辺を「映画のリズムや、イメージを中心に据えた演出法がアジア的なのかもしれないが、この作品に関して言えば、台詞を最小限にして、画面によりその場の空気を観客に理解させる、という点が特異だろう」とコメントしている。

だが、やはりアジア以外の国々からも高い評価があるのは、そういった点だけでない魅力があるからだと思う。世界共通の、特に男の子の思春期。そして、主役の男の子に実子を用いながら、そこに監督自身を投影することによって生じる温かい眼差しがあるからだと思う。

原題の「ベシュケンピール」は勿論主役の名前だが、この言葉自体が「5人の老婆」を表し、英語のサブタイトに『Adopted Son』とあるように、養子縁組の際に村で尊敬されている老婆の事なのだ。3人だとコシュケンピールといい、彼女等による悪霊祓いを受けた子供を、悪霊から守る為に名前にしてしまう事もある、という。

主人公は、ある日自分の出生を知り、動揺するのだが、これはかつての監督自身の姿でもある。その強烈な思い出も含め、カラーによる演出部分は初恋など、彼の人生での劇的な場面に採用されている。

さて、登場するたくさんの子供達だが、ほとんどが『現地調達』の子だという。首都から約300mのロケ地ではそこでの住民の生活を大事にして、農作業も手伝いながらの撮影だったが、そのお陰か、彼らもきちんと「仕事」をこなしてくれたらしい。ギャラに関しての質問は『あまりに低いので『内緒なんだそうだ。なお、撮影には約1年間が費やされている。

邦題にある「自転車」は実は恋の重要な小道具。好きな女の子を、わざと後部座席をはずした自転車で迎えに行って、自分とハンドルの間に座らせる。そして上り坂になれば・・・という男の子の可愛い下心なのだ。監督の息子、ミルラン君もこの場面の撮影が一番のお気に入りだったとか。

色彩と同様、独特だったのが音楽。担当はヌルラン・ニシャーノフというキルギスの作曲家だが、自然の音とダイアローグだけの不思議なサウンドなのだ。

話ぶりも実に穏やかで、終始にこにこしている監督。彼を見ていると、何故かほっとする温かさのある人柄だった。彼はミルラン君の成長に合わせ、次回作を準備中とのことだ。

最近でこそ、あまりありがたくないニュースで、名前を耳にする事が多くなった国だが、キルギスタンの映画など滅多に目にする機会はないにも関わらず、自分のルーツを見るような、不思議な作品だ。

鳥野 韻子

神さまへの贈り物

イラン映画としての評価:★★
キネカ大森・イラン映画特集2より

この映画は、96年の作品。英題(おそらく現題直訳)は、「BAG OF RICE」といい、米袋のこと。(そのままの方がいい)

日本ではお米といえば10kg程度のビニール袋か、丈夫な紙の袋だが、イランなどの国では現在ナイロン繊維の麻袋のような大きい袋を使用するのが一般的だろう。(ちょっとしたことだが、国により違うものだから)

映画の中ではこの米袋を1000リアルで買う場面がある。(約20円相当)また、少女ジェイランがおじさんからもらうコインは100リアル。(何も買えない)

この映画は日本との合作と歌ってあり、どこまで日本人の手が加えられているかが不明だが、イラン映画といえば…といった要素で作られている。(日本はお金を出したかけか?)

つまり、イラン映画といえば、少年少女、ミニロードムービー、うろうろして問題が起こる。その度に誰かが交わり、最後は家に帰る。(それはキアロスタミの映画か)

この映画、まずは幼い姉妹がパンを買いに行くシーンから始まる。(いきなり喧嘩している)パン屋の列、焼き立てを順番待ちして買う姿、そのまま何枚かを手でもって帰る姿。(ごく普通の情景)

また家の回り、パン屋の道すがら、どこもかしこも真中に溝があり、ちょろちょろと水(下水か雨水か)が流れている。(これも当たり前の風景)イランというのはスキー場があるくらいだから、冬は寒い。まだ学校に通えない歳ごろの妹ジェイランは毛糸の帽子をかぶっている。(その姿がかわいらしい)

となりのおばあさんマスメさんのめがねもリアルだ。(小道具ではなく、自前の物としか思えない)

その後の粗筋はなんだかんだと話しは進み、となりのマスメさんがお米を買いにいくのに、ジェイランは一緒にでかける。ジェイランがだだをこねて、無理やり一緒にいくことになったのだが。そしてバスにのり、町中をうろうろし、さまざまなトラブルにみまわれる。自分達で招いているとしか思えないトラブルなのだが。その合間で街の風景がうつしだされ、いくつものモスク、レリーフなどが映し出される。(これがきれいで、見ごたえある)最後はお決まりに解決し、家に帰って幸せに幕を閉じる。(笑顔で終わり)

この映画を細部まで見ていると、さまざまな興味深い物を目にする。(まるで観光でもしているかのごとく)

まずは、家でお茶を出す場面、後ろの方にティーポットが置いてある奇妙な形の湯沸かし器。恐らくどこの家でもこれを持っているだろう。下にガスを当て、真中の丸みを帯びたあたりに水をいれ沸かす。真中あたりに蛇口が付いているのでポットにそのままの状態でお湯を注げる。そのポットは最上部においておけば、余熱で保温できる。(いくらいってもイメージは難しいだろう)

ジェイランがしきりに公園に行きたがるが、実際宗教的に娯楽がそれほど多い国ではないためなのか、町中に大きな公園がいたるところにあり、老若男女が週末にあたる金曜日には公園にくりだす。(木、金曜日が、日本の土日曜日にあたり休みになる)

道路の端に両手で箱を支えるような形をした六角形の黄色い箱が写るが、これは募金箱。私がテヘランにいった時、「いったい誰がいれるものか?」といった矢先に中年の男性がコインをいれていた。(機能しているらしい)

映画の話題というよりもイランの話題になってしまったので、映画に関していえば、多少オーバーな演出が目障りに感じる。カメラアングルもちょっと臭い。もうすこし素直に撮影しておけばよかったのに。

最後に、先日キネカ大森で見た時にフットライトのカバーが破損していて、電球の明かりがそのまま目に入るため、至急修理してほしいと思ったものだが、本日9月23日までにまだ修理されていなかった。(残念)

立野 浩超

ヴァンドーム広場

総評:★★★
カトリーヌ・ドヌーブへの評価:★★★★★

カトリーヌ・ドヌーブ主演の仏映画。

映画ファンの中でもフランンス映画と聞くとそれだけで見にいかない人は多いだろう。その様な人がこのメールマガジンを読んでいるとは思えないが、この映画はそういう人にもぜひ見てもらいたい。なぜならまさしくこの展開、この映像がフランス映画であるから。

ストーリーはサスペンスタッチで犯罪の臭いを漂わせつつ、人間模様が絡みあった重厚なドラマに仕上がっている。まさしくフランス映画といえる展開がエンディングを迎えると、エンディングタイトルを見ながらじっとストーリーを振り返らざるを得ない。

ただし、多少ストーリーの真意を映像から読みとるという作業が必要な為、「何も考えずに見れるアクション大作が好き」という人にはやはり受け入れられない可能性が高かろう。もちろんアクション映画を馬鹿にするつもりはなく、私はシュワルツネッガーの新作「公開を何よりも待ち遠しく感じている一人だ。

どうもこの映画は、カトリーヌ・ドヌーブの為にあるという雰囲気すらあるが、それほど役柄とドヌーブのイメージがぴったしはまっている。彼女の役柄だけではなく、まわりの設定、風景すら彼女のためにあるのではないかと思えるほど見事なできばえ。

さらに、若くて美しい女優エマニュエル・セニエと、歳をとってもまだ魅力的なドヌーブの対比すら面白い。

立野 浩超

シンプルプラン

ストーリー:★★★★演出   :★★

原作は、世界で2,200万部売り上げたベストセラー本。作者はもともと脚本を勉強していたとのことで、この原作本も本人の手によって脚本に書き換えられた。

ブリジット・フォンダが演じる図書館で働いている普通の田舎主婦の迫力を始め、登場人物全員のリアルな風貌、言動はおもしろい。アメリカ映画には時としてこの手のリアルさが欠けることがあるが、ブリジト・フォンダの演ずる冴えない主婦は必見。まるでイギリス映画のリアルさがある。彼女のインタビューで、「あの髪型(前髪だけをそろえた長髪)にしたのは、裕福ではない主婦にとっては美容院にお金をかけられない。その為手間がかからない現実的な髪型をしているものだと思ったから。」とのこと。

ストーリーの必然性はなかなか説得力があり、殺人がなぜ起こったかを十分理解できる。つまり映画を面白くする為に出演者に強引に犯罪をやらせているのではなく、たしかにこの場面ではこうするだろう、やらざるをえないだろうと言えることを行わさせている。ごくあたりまえの行為に見えてしまう。見ているこちらも、その5億円というお金の魅力がいかほどかを理解できるため、気持ちがわからなくもないといった感じだ。

見終わった印象、ポスターの雪の白、現金が動くストーリー、変人な登場人物といい、「ファーゴ」のイメージに近い。また、若干スローなテンポで話が進展していくため、退屈に感じる箇所がある。それはリアルであるがゆえに起こる現象といえよう。ノンフィクションに見られる退屈さがあったが、もちろんこれはフィクションである。そこの評価で好みが別れるのではなだろうか。

立野 浩超

ノッティング・ヒルの恋人

★★★★
ベストフレンズ・ウェディングに続き、ジュリア・ロバーツの当たり役。彼女の魅力を充分に堪能できる作品だ。ストーリーはローマの休日を彷彿とさせる(と、いうか最後の記者会見のシーンなどはまんま。)ロマンティックなラブ・ロマンスだが、それを甘ったるくせず、現実味を持たせたのは脚本、セリフの面白さ、となおかつ脇をかためるクセのある俳優陣の力だろう。なかでもルーム・メイトを演じた、リス・エヴァンスのすっとぼけた演技は最高。

またキャスティングも作品の成功の理由の一つ。いかにもハリウッド・スターのイメージの強いジュリアをまんまスター役に起用し、「演技はヘタだから」なんてセリフを言わせてみたり最近かつての美青年時代の影の消えうせたヒューに対し、「ハンサムな顔も崩れてきて・・・」みたいなことをいったり。まさにハマリ役ですね。

また、注目したいのは、劇中のアナ・スコット(ジュリア)のファッション出会いの場面、シャネルのベレー帽に黒のパンツでバシっと決めながらも足元は黒のスニーカー。まさに女優とはかくあるべきという完璧なスタイリング。またゴージャスなドレスから「アニーホール」のダイアン・キートンを彷彿とさせるマニッシュなスーツ姿も観られます。

ラスト近く告白のシーンではごくフツウのセーターにタイトスカートのシンプルな姿で現れ「恋する普通の女」を上手く演出していました。次回作「プリティ・ブライド」でのウエディングドレスの着こなしも今から楽しみです。
MS. QT MAI

エリザベス

監督:シェカール・カプール出演:ケイト・ブランシェット、ジョセフ・ファインズ、クリストファー・エクルストン

ストーリー

時代は1550年代。英国は熱心なカトリック信者のメアリー女王の統治下、容赦ないプロテスタントへの弾圧が行われていた。所謂“ブラディ・メアリー”である。が、スペイン国王との間には子供なきまま、他界する。メそこで、アリーへの謀反のかどで、1度は捕らえれた義妹のエリザベスが王位に就く。

奸知に長けたノーフォーク卿、政略結婚をまとめようとするスペイン大使やフランス大使。そんな中、頼りにしていたダドリー卿までをも含む、彼女への謀反が発覚して・・・。

インド人の監督、オーストラリア人のエリザベスと側近(ジェフリー・ラッシュ)、英語の台詞で初出演の元サッカー選手(エリック・カントナ)や生っ粋の?フランス人俳優達(ファニー・アルダン、ヴァンサン・カッセル)・・・と何と個性的で国際的な英国史劇だろうか。

残るイギリス人俳優たちも、出身地が異なり、おまけに古い宮廷言葉だから、これは台詞面を考えても凄く大変だったに違いない。あまり英語は得意でない筆者だが、やや?BBCを聞いているような“かたい”英語が耳に心地よかった。

それにしても、よくまぁ、という位の曲者俳優を集めたものだ。コスチュームに欠かせない、大ベテランのJ.ギールグッド、女装が決まってた?ヴァンサン・カッセル等。これで、ファインズ兄弟両方と共演した事になる、ケイト・ブランシェットは実に堂々としていた。(兄のラルフとは『オスカーとルシンダ』で共演)

歴史的な部分は大幅に改ざんされているが、”History”でなくHi(高度な)Storyと考えれば、充分楽しめる。その昔(?)高校で歴史の講師なんぞしていた、筆者は最初の授業で、「人々が語り伝えたお話・・これが歴史」何て偉そうに話していたことがあります。

だから、立場が変われば、お話の内容も違ってくるわけで、それをまた、映画という娯楽にするのだから、この程度なら赦されてしまうだろう。まぁ、興味のある方は『1000日のアン』とか『オルランド』を見てみるとか。参考までに、本では小西章子さんが書いた「華麗なる二人の女王の闘い」は面白く読めるのでお薦めです。

そんな歴史的な内容より、エリザベス1世のコワイ女のイメージがある中、この作品では歴史に翻弄され、「普通の」女として生きられなかった、ある意味、政治の犠牲者となった女性の苦悩を前面に出している。

登場人物達の衣装を見るだけでも一見の価値がある。各役者の個性と、残されている肖像画の雰囲気を両方生かしていて、素晴らしい。

エリザベスは、その心境や境遇に合わせて、色やデザインに変化が見られる。若々しいレッド中心のドレスから、凝ったつくりの深みのあるカラーのものへ変わっていく。

そして、その子ちゃんも吃驚の白塗に国家の花嫁となった白い衣装。その昔日本でも白塗りをしていた時代は、暗い中に顔がぼ~っと浮かぶように、とか表情を悟られない為とか言われていたが、彼女も多分後者の理由も考慮しての事だろう。

また、それらの衣装を一層雰囲気あるものにしているのは、レンブラントの絵画のような光だ。後半の暗殺シーンでは、この暗がりが一層無気味さを引き立たせる。

同時に音楽の使い方も秀逸。恋をしているエリザベスには軽いダンスの音楽。そして、ラストは荘厳なモーツアルトの「レクイエム」。それも第1楽章の”キリエ”以前までを使用しているところも、憎い演出だ。

それにしても、知らずにこの映画をエリザベスの誕生日(9/7)に見に行ったと、後で知っと時はとても吃驚でした。

鳥野 韻子

ハリケーン・クラブ

母親が服役中の15歳のマーカス(ブレンダン・セクストン・サード)は、万引きをやってその日暮らし。彼は14歳のメレーナ(イザドラ・ヴェガ)と親しくなる。彼女の母親は、暴力を振るう父親に愛想を尽かして出ていってしまった。その父親が、子供を真っ当に育てたいがために、今度はメレーナを半ば暴力的に躾けている。 マーカスは、ニューヨークから抜け出したくて仕方ない。メレーナとマーカスは一緒にアラスカの親戚へ行こうとする。現状を逃れて、仲良く2人はいわば道行きである。ニューヨークという現実は彼等に無力感だけを与え、手応えのある将来を夢見させてくれない。そこで、見知らぬ土地へと旅立つのだが、それは現実からの逃避であり、江戸時代に見せた心中と同じ心理である。

映画は2人がアムトラックに乗って、シートに並んで腰掛けたところで終わる。「こんな事をしたら、父親に殺される」と父親の影に怯えての旅立ちだが、その父親はすでに死んでいる。もちろん、メレーナは父親の死をまだ知らない。その後でどんな場面が展開されるかは、観客の想像にまかされている。父親に殺されるかも知れないと言う危惧を抱いてまで、父親の元を離れていく娘。それが現実だとはいえ、何という悲劇だろうか。

観客は、この父親にはまったく同情しない。自分では愛情表現として、子供や奥さんに自分の価値観を押しつけているのだ。決して愛情がないわけではない。暴力が彼の愛情表現なのだ。むしろ、誰よりも強い愛情を持っているだろう。とりわけ奥さんに逃げられてからは、メレーナがこの世でたった1人の分身である。可愛くないわけがない。しかし、彼は相手の意志を大切にするという、愛情の表現の仕方を知らないのだ。自分の愛情だけを押しつけ、相手の願望を省みない。

古き良き家族が支配的だった時代には、男女の役割や家族の役割が決まっており、それに合わせて人は生活していた。男女で性別役割が固定していたし、立場で生き方が決まっていた。役割や立場から逸脱することは、将来の生活ができなくなることを意味していたから、親たちにとって子供を鋳型にはめることこそ良識ある教育だった。そのため、親たちはそのパターンにはまるように子供たちを育てた。そのために躾が厳しく言われた。暴力的な躾も肯定されたし、子供たちも渋々ながらそれに従った。この父親はそうした時代の価値観から逃れられない。彼が考える厳しい教育、それが子供の幸せを保証すると考えている。

今やそうした役割分業や立場でものを考える発想は役に立たなくなっている。それを子供たちは敏感に察知して、親が体現する既成の価値から逃れたくて仕方ない。それは具体的には家庭からの脱出だし、父親からの逃避である。メレーナにしても、父が死んだことを聞かされれば、動揺はするだろう。しかし、だから逃避行をやめるかと言えば、決してやめることはないだろう。

肉体関係を予感させながら、性交をともなった恋愛までいかない年齢。揺れ動く感情に翻弄されて、旅立つ15歳と14歳の2人。かつては旧弊な田舎の生活を嫌って、都会へと旅立ったものだが、今や都会の生活が子供たちに夢を与えない。マーカスは喘息持ちで、いつも吸入器を持ち歩いている。都会の生活者であり、都会を知っている子供たちには、都会が希望を与えてくれず、いまだ見ぬ場所は青空の田舎なのだ。しかし、田舎も近代化の波は押し寄せ、田舎にも彼等の求めているものはない。近代の生活は厳しい。子供たちは、それについて来ることができない。

近代は若者が担った。だから近代の象徴である都市へと、子供たちは旅立った。しかし、近代が先鋭化し、出口がないように感じ始めている。肉体労働の時代には、肉体的な劣者が差別され、オチコボレだった。頭脳労働が優位の社会では、劣等生は落ちこぼれる。しかも、頭脳労働の社会での規準がまだ見えない。弱い部分へと社会のしわ寄せが来る。自立した大人たちにとって、子供は必要不可欠のものではない。子供は親の癒しであり、いわばペットなのだ。子供は自己存在の手応えを求めて彷徨わざるを得ない。

モーガン・J・フリーマンという若い監督作品だが、繊細で現代的な感覚に優れた美意識にあふれている。平凡な日常に社会の歪みを鋭く見抜き、非凡な映画に仕立てているのは、サンダンス映画祭で入選するには充分な力量である。「マクマレン兄弟」と同じ系列に属する映画だが、対象とする年齢がもう少し低くて、子供の自立というきわめて現代的な視点である。

1997年のアメリカ映画。

匠 雅音

マンハッタン殺人ミステリー

キネカ大森のウッディ・アレン特集よりマンハッタン殺人ミステリー

(私は、冷静にアレンの作品に★をつけることができない。)

とにかく映画館でアレンの過去の作品を見直す、いい機会がやってきた。キネカ大森だけでなく、常に映画館のアンケートでは「アレンの特集を!」と書いてきたのが効果あったというわけではないだろうが、最近の作品をメインに10本再上映。

隣人が心臓発作でなくなった。それに疑問を感じた夫婦が始めた探偵ごっこが思わぬ展開に…というストーリは良くできている。コメディーファンだけでなく、ミステリーファンでも楽しめるのではないだろうか。

尚、撮影(カルロ・ディ・パルマ)を始め、美術(サント・ロクアスト)、衣装(ジェフリー・カーランド)、編集(スーザン・モース)など、アレン映画に欠かせないスタッフがそろっており、毎回見事な作品を生み出す連中に拍手喝采。

立野 浩超