バッファロー’66

★★

ビンセント・ギャロのことをあまりに各誌、各人がよく書きたてるため、かなり期待して行ったが、中身はうすっぺらな脚本で、ギャロ自身の演技も希薄。いままでの映画で見せつけた存在感がいっきに消えてなくなりそうだ。もちろん彼は変態風な役柄をこなすには最高の役者で、この手の映画には彼が出演すべきだろう。

ただ、この映画では彼が監督であったが為に自分のわがままがそのままとおりすぎて、はどめが効かなくなったのではないだろうか。演技がくどい。彼が監督、脚本、音楽、主演と一人で何もかもやりすぎた結果だろう。

さて、ギャロ以外にも触れておかなければならない。クリスティーナ・リッチはアダムス・ファミリーのころの面影を失い、ただのおでぶとなってしまった。あの体格があの癖のある映画にはお似合いだが、彼女のこれからの女優人生を考えると悲しくなってくる。個人的にはアダムスファミリー時代から、Dearフレンズ(95年)でロジー・オドネルの子供時代を演じていた彼女の姿までが気にっているが、もう過去の面影はない。彼女の太っていく姿はテレビ(シネマ通信)でも報じられていたと記憶しているが、あそこまでとは思わなかった。

ただしバッファロー’66は98年の映画で、その後の情報ではかなりダイエットに取り組み、いまはスレンダー(?)な姿にもどっているらしい。近日日本公開の「ラスベガスをやっつけろ」にも出演しているが、同じく98年の映画であるから体格は同じだろうが、99年には4本の映画出演が予定されていて、引き続き活躍が期待できる若手個性派女優の一人だといえる。

バッファロー’66でリッチの演技は、その演技上の評価よりも化粧と、肉付きで印象を高めた結果演技がごまかされ、かつ存在感がある為に観終わったときにまるで名演技をしていたかのような、個性あふれる役柄だったかのような錯覚に陥ってしまう。実際は三流の個性を演じていたいに過ぎなかったが。

一方、家の中と路上では監督としてのギャロの目線の素晴らしさを実感するシーンもあるが、ボーリング場の場面では「ビック・リボウスキー」を思い出さずにはいられないのも残念だ。映画としては随分違うボーリングシーンではあるが、一度観ればその関連にすぐに気付くだろう。

立野 浩超

セレブレーション

まず、ドグマ95というのを知らなくてはならない。勉強不足の方のために簡単に説明しておきます。

デンマークの4人の監督が集まり以下の十戒に対して「純潔の誓い」に署名した。
1)撮影はロケーション撮影であること。セット、小道具も禁止。つまり、実際の家屋、土地、風景を探してその場所で撮影するということ。
2)映像の中以外の音は禁止。その逆も禁止。必然的な音楽以外は禁止。(効果音が使えない。)
3)カメラは手持ち。但し、手でできない動きや静止の場合は許可される。(詳細不明)
4)映画は白黒ではなく、カラーで。人工的な照明は禁止。
5)オプティカル処理、フィルター使用は禁止。
6)表面的なアクションはしない。(武器、殺人は出さない。)
7)時間的、地理的な剥離は禁止。
8)ジャンル映画は禁止。(SFや、ホラーは勿論撮れない。)9)アカデミー35mmのフィルムフォーマットを使用する。
10)監督はクレジットにのせない。

これにより、彼らは監督の個性を排除した作品をつくることができるということになる。映画はアートとして作られるのではなく、真実を撮ることを目的とし、たとえフィクションであれその中の真実のみを描き出すことに固執する。リアルな映画といったほうが分かりやすいだろう。

ただし、どんな規制を課したとしても、監督や各スタッフにより明らかにまったく異なった作品ができあがり、それは1個人の趣味趣向が織り込まれることには間違いない。

それはまるで絵画のキュビズムのような物ではないだろうか。一定の法則にそって描かれた作品は一見同じように見えても、それぞれの作品がまるで異なった個性を持ち、作者の感情が織り込まれ現れてしまい、最終的に個別のアートとなっている。

思うに、彼らにとってこれはいっときのムーブメントであろうが、もし彼らがその枠の中で1、2本撮影した後その誓いを破りすて、全く自由に映画を撮影したとすると、その映画は今までの彼らの映画を超える作品となる可能性は秘めていると思う。マンネリの凝り固まった頭に変化をもたらし、アイデアをもたらす行動なのではないだろうか。

さて、ドグマの十戒は果たしてどれほどの意味があるのか?

ロケーション撮影に関しては、場所を探すという労力がいままでにまして必要となる。小道具も禁止なため、外見のみならず、その中身までを考慮しなくてはならなくなるので、さらに苦労することだろう。また反面、監督のイメージと違った場合でもあまりわがままを通す事もなく、簡単に場所を決定してしまう可能性もある。映画は常に予算を計算しているものだからだ。

ロケーションにしても、セットにしても監督達の文章(原作や、脚本)からのイメージを現実のものとして置きかえていく為、個人の趣味趣向が多くの比重をしめてくる。それをできるだけ排除する為には、あえて不自然になるセット、小道具をなくすということだ。よくあるのは、映画やドラマの中の部屋で、家具や置物をよく見ると高価なものばかり。いったいこいつは年収いくらなのかと思ってしまう。また、できすぎた雰囲気の風景、きれいすぎる街並み、汚らしく見えるようにした汚れ、こういった不自然さがなくなる。それぞれ、いいロケーションを探しだせれば問題ないのだが。

音楽をいれないことは分かりやすい行動だろう。音楽で感情表現を盛りあげたり、喜怒哀楽をつくりだすのではなく、そのように上手く演じればいいのだから。必要であれば、劇中本人達にレコードやラジオをかけさせればいい。ダンスシーンなどには必要だろうから。

カメラは手持ちであること。クレーンをつかっておおげさに、レールをつかってスムーズにとはいかない訳だ。だが、「手でできない動き(Any movement attainable in hand)は許可される」とはどういうことだろ。どんな場合が手持ちでなくてもいいのかわからないが、まあ基本的には原則手持ちカメラを使用するということのようだ。おおげさな表現がここでも省くかれる。カメラのこの変化は明らかに映画に表現されているのだが、見づらい場面をいくつか作り出してしまい、改善の必要がある項目だ。手ぶれがひどい場合は固定して撮影すべきだろうし、その場合は手でできない動きにはいるのだろうから。

白黒を禁止することは、カラーのなかに意図的に白黒を挿入し、イメージを盛りあげるために使用する手法を禁じているわけだが、これも意味があるだろう。現実を現実として撮影するような映画をつくる場合、この手法にたよる必要性がないからだ。ただし、同時に人工的な照明を禁止していること。これは解せない。露出に十分な光が得られない場合はカメラにライトを一つだけとりつけることが許されるが、この光量では明らかに不足してしまう。手ぶれはする、光量は不足するでは、観ていて不快感が生じてしまい、映画に対してまともな評価すらできなくなってしまう。また、そういったシーンは特徴的になりがちで、ドグマ95としての効果に逆行する。ライトは十分な光量が得られるようにすべきだ。

ただし、それならそのようなシーンを使わないようにするか、編集段階でカットすべき場所とみなされるのかもしれない。その厳しさが「ドグマ95」か。

オプティカル処理もフィルターも不自然な映像、または自然すぎる映像をつくりだす為の手法で、これをなくした上でいかにイメージ通りに撮影していくか、監督と撮影監督の力量が現れる。

アクションとか、時間的、地理的な剥離、ジャンル物となることを嫌ったこともドグマ95の意図に添う。あえて説明もいるまい。

さて、アカデミー35mmにこだわる理由とは?(残念ながら不明です。)現在、ヨーロッパビスタですら画面が狭く感じる訳だから、35mmという幅はかなり狭く感じる。単にこの違和感を制限のひとつとしているだけか?幅を選べることに対する制限の意味あいか?

「監督はクレジットにのせない。」というなら、チラシ、パンフレットにものせないように徹底してほしい。監督の名前が後先でわかれば、クレジットにのっている、いないの意味がない。監督にとって、映画関係者にとってクレジットにのることは誇りでもあろうが、十戒の10番になるだけあってあまり意味がない。どうせなら世界で作品公開終了後まで監督の名前をふせるところまで徹底して初めてドグマ95にとっての意味が生まれる。これは世界同時公開でもしない限り明らかに無理なことだろうが。あくまでも心意気としてとらえるべき戒律なのかもしれないが。

さて、映画評にもどる。チャレンジ精神とリアルではないが痛烈な人間批判がこもった内容に賞をとる要素は感じるが、その割にストーリと人物一人一人の魅力はたいしたことがない。

幼児期(少年少女期?)の子供に対して、父親が犯してしまった性的虐待(近親相姦?)のために、、、となるわけだが、撮影(ライティング、手持ちカメラ等)の問題から観るのに疲れてしまう。

実際この作品を106分にすること自体が無理がある。もうすこし凝縮できる程度の密度であり、意図的に長びかしていったということではなく、編集に特徴がなさすぎたのではなかろうか。時間的な剥離を犯さないために気をつけたせいか、展開を正確に追っていく姿勢の為か、演出がしつこく感じる。

というわけで、ここで11番目の制約を作るとすると、作品は1時間30分以内とすること。

また、役者の演技等にも制限を加えたほうが良かったのではなかろうか。家族ものの場合は本当の家族の役者をつかうとか、すくなくとも化粧はファンデーション禁止とか、それこそアイロンかけ(クリーニング)は自分の予算でするとか。マイクはカメラの近くに設置するというのもいいかもしれない。

半分冗談じみてきたので、この変で終わりにしましょう。

立野 浩超

朝生 賀子

新コーナー「Iris’ detections」

ScreenKiss って言うミーハーな名前の割には、結構マイナーな作品やくどい記事をターゲットにしている我々ですが、映画を紹介する以外にも新進映画監督や作品を世に広めようと言う目的もあるのです。

とは言っても、有名な作品や監督を紹介するのよりも大変だと言うことはご存じだろうか?たとえば、有名であれば事務所や連絡先がはっきりしているし、もしマクドナルドで会ったとしても、勇気があれば声をかける事が出来る。

しかし無名の人間というのに知り合うのは、結構難しい。もしかしたら電車の隣に座っている人間は映画監督をしているかも知れないが、どんな作品を作っているかとか分からない。調べることも大変だ。過去の作品がビデオで簡単に見れることはないだろうし、経歴なども調べることは難しいだろう。

実際横浜フランス映画祭では、ごく有名な人物を除き、誰が監督なのか?どんな作品出来ているのか?分からない。サインをもらっても、これが誰のサインか後で迷うことになる。「あなたは、誰だか知らないのですが、取りあえずインタビューさせてもらえますか?」と言うのでは、いくら何でも失礼だろう。少なくても日本に来ているわけだから、本国ではそこそこの知名度があるに違いない。

こんな訳で、まだ無名の作家を取り上げるのは、なかなか困難なのである。そうとは言えども、Iris’ detectionsでは、まだ日の目を見ない、もしかしたら有名になるかも知れない、映画人・作品を紹介していく予定だ。何しろ、インタビュー対象の作品や経歴など全く知らないで、話してくることがほとんどであろうし、だからといって辛辣さが無くなることは無いだろう。「ぴあ」などの記事などを読んでいるときのように作家や作品を判断しないで頂きたい。

さて、第一回は新進映画監督の「朝生 賀子」を紹介しよう。

大阪出身で大阪写真専門学校(現在はビジュアルアーツ専門学校・大阪)を卒業している。在学中に制作したものも含め7作目に当たる作品「キミタチニアイタイ」を9月に上映を行う予定だ。

この作品は、本人にとって初めて劇場で観客に見せる事を目的として制作したもので、今までの作品は学校の課題であったり先生などへ評価してもらうためのものであった事らしい。

監督以外にも、助手や製作サイドの色々な仕事をしているようで、たとえば「ガメラ2」の制作進行・企画VTRの助監督なども行っている。

彼女自身は色々な協力を自然受けることが出来、比較的スムーズに事が進んでいると言う印象を受けた。特に積極的に色々なところへのアピールをすることは少なく、多くの方々から依頼をされたり上映なども好意的に受け入れられた様だ。それだけに才能があるのかも知れない。

現在は静岡県浜松市にすんでいるのだが、これも非常に興味深い話だった。

僕自身映画監督にあこがれていた時期があり、在米中に何人かの映画監督に出会った事があった。その時にやっぱり問題になることは、制作の費用である。

もし一本の作品を作るとすれば、最低2000万は必要だと言われたことがあるが、これだけのお金を個人で用意することは難しい。特に駆け出しの作家にとっては、殆ど個人で用意する以外にないと思われる。

しかし彼女はスタッフを全てボランティアで揃え、制作費は殆どフィルム代程度ですみ、普通かかる費用の10分の1程度ですんだ様だ。

当然26才の人間がいくら低額で作成できたとしても、経済的には苦しくなることはある。その時に手を差し伸べてくれたのは、浜松にあるシネマ・バリエテと言う存在だ。

このシネマ・バリエテとは「ムーブメント」と言われる存在なのだが、20年も続いているのは、この浜松のシネマ・バリエテぐらいだそうだ。

今回の作品は東京で撮影されたのだが、その終了後大阪で編集を終え、現在浜松に住んでいるのは、このシネマ・バリエテとの関係からだ。

日本では映画業界は斜陽と言っても悪くないのだが、政府が映画業界に強力にサポートしているフランスでは、有名な俳優がまだ名もない監督の作品に出演してくれることもある。果たして日本ではどうなのだろうか?

彼女によれば、日本でもその様なことはあるというのだ。実際彼女の作品でもガメラシリーズ全作品に出演している蛍雪次郎などもノーギャラで出演してもらっていると言う。日本でもしっかり話せば理解してくれる人間は多くいるのだと言うことを感じた。

彼女は自分で「映画作家」と言うのだが、それはイメージや実験的な映像を扱う映像作家とは違うという事を話していた。ストーリーがあり登場人物がある作品を作っていきたいというのだ。

今までの作品もタイトルや紹介文を見る限りでは青春とか恋愛映画である。雰囲気的に彼女はZARDが好きだと見たがどうであろう。

最後に9月2日、3日に浜松東宝劇場で公開する「キミタチニアイタイ」を少々紹介しよう。まだこの作品は見ていないので、パンフレットに書いてあるストーリーのみを簡単に……

ケーキ屋さんでアルバイトを始めたトミオは、二人の女の子に引かれながらも出会う事さえ出来ないでいる。全てが曖昧な「イマドキ」の、希薄な関係や痛み、ゆがみをみつめる-たぶん「青春エイガ」。

なお、この作品は浜松を皮切りに全国で公開していく予定だそうだ。

ScreenKissでは、まだ駆け出しの映画人を積極的に応援していきたいと思っています。もし我こそはと思われる方、是非編集部までご一報を!

アムス・シベリア

★★★

ドイツ、オランダ映画はどうも普通の編集、カメラ回しをきらうようだ。

もちろん現地ではいくらでもオーソドックスな作りの映画もあることだろうが、日本にはあまりこなくなった。昔のドイツ映画の栄光は今いずこ?

この映画、どうもララ役の女優ヴラトカ・シーマックの魅力が感じられない。男優2人(ヒューホ・メッツェルス、ルーラント・フェルンハウト)に関しては言う事ない個性が魅力的。

カメラ回しと編集手法には、若い監督が格好よくつくった映画といった雰囲気があるが、基本的な話のバランスはいい。

骨格がうまくできていて楽しさがあるからこの監督(ロバート・ヤン・ウェストダイク)には次回作に期待をしよう。

立野 浩超

パラサイト

人間に寄生するモンスターが最後には人間によってやられるという、これも別に話には目新しいものはなく、なんとなく「スクリーム」っぽい。

しかもモンスターの好きなものが水で、弱いものがドラック゛とは・・・。でもこれはこれで何となく楽しめて観れる。なんでだろう・・・。

もしアメリカの典型的娯楽映画が好きな人なら、「ウォーターボーイ」観てから「パラサイト」を観るのをぜひ薦めます。共に重要なファクターがWATER=水。暑い夏ならこれはグッド。

山下 裕

ウォーターボーイ

★★★

話としてはとても単純で、しかも本当にくだらない(笑)。もうまさにアメリカ的なコメディーであって、こういったたぐいが好きな人なら本当に満足なのでは。ウーン、それにしてもアダム・サンドラーって俳優はどこか気になる存在である。一見くせがなさそうで、実はとても強いそのキャラクターが。

※この映画、全米興行収入第5位というからおどろきだ。

山下 裕

アイズワイドシャット

★★★

キューブリック作品については初期の頃の作品は観たことありせんが、最近に近い作品は観ていて、「シャイニング」や「フルメタルジャケット」は好きな作品です。

キューブリック作品において、映像の素晴らしさがよく言われますが、僕も全く同感で、映像にとても力強さというか説得力があるなあなんて思います。

さて、この作品ですが、一回観ただけではどうも僕には理解できなかったなあ。作品を観た後でパンフレットを見た時にも思ったりしました。途中で話を追いきれなかった部分もあり、その部分の甘さもあるからかもしれないけど、ラストの終わりかたも何か納得したようなしなかったようなあいまいな感じでした。

シーンの細かい部分では、T・クルーズが何者かに後をつけられるシーンの画、台所にいるT・クルーズとテーブルにいるN・キッドマンが視線を合わすシーン辺りが印象的でしたね。俳優については言うべきことはなく、N・キッドマンの最初のトイレのシーンには少し驚き。

しおわって紙で拭くなんてカットは普通の映画ではあえて表現はしないだろうに、それをしたキューブリックはやはり普通ではないな。それと共にN・キッドマンもよく演じたななと。

映像については、そのカットは引きで、そこのカットは寄りといった、非常に的確とでも言うべきカット割り、構図といったものを感じた。ただ、最初のパーティーのシーンから、(予告編で流れていた)家に戻って鏡で抱き合うシーンへの移行は僕には不自然だった。

この映画は僕にとって、ある意味で「2001年宇宙の旅」的である。映画の言いたいこと、面白さが何となく分かる日があとでくるのだろうといった意味で。それにしてもこれを機に、改めて全作品を観たいですね。

山下 裕

エントラップメント

★★★

日本人にとって泥棒といえば「ルパン三世」ではなかろうか。また、ルパン三世の映画版といえば「カリオストロの城」ではなかろうか。あの脚本にはほれぼれする。

泥棒が主役の映画「エントラップメント」の魅力は、あのわくわくするような泥棒のテクニックであってしかるべきだろう。007シリーズのように道具が主役となり、我々には欲しくもない重要機密フィルムを盗み、お国のために働く姿、帰国すればゆっくりできる英雄とは違い、こんな道具があっても不思議ではないと思われる程度の泥棒の7つ道具を使いつつ、だれでもほしがる金銀財宝を盗んでいく。しかも世界中でインターポールの指名手配犯人だから、安住の地はない。それが泥棒とスパイの違いで、映画の違いだろう。

オープニングでいきなりその泥棒のテクニック、道具を駆使し、見事なアイデアでレンブラント(絵画)を盗んでいく。わくわくする泥棒劇の始まり。

一気に引きつけるハリウッド流のテクニック。しかしそれが次第にキャサリン・ゼダジョンズ(ジン役)がショーン・コネリー(マック役)に体を見せ付けるお色気シーンに続いていく。トレーニングと称して、ハリウッドでいわれる「ホモセクシャル映画と思わせないための演出」となってくるのだ。つまり全く男性が女性に魅了されるシーンがないと、その男性はホモの設定だと思われるらしい。それを避けるためだ。

実際そんなシーンがなくてもいまさら毛嫌いする人もいないだろうし、反面そういったシーンを期待してくる客もほとんどいないだろう。

あの長ったるいトレーニングの場面では多少飽き飽きするが、引き続き行われる泥棒のテクニックに期待をしながら待ちわびた。

しかしながら、その後の映画はただのダイ・ハードであった。あのビルに忍び込む賊のように、ジン&マックが美術館にはいりこむ。あのビルで独り孤独に逃げながら戦っていたシーンは、ジン&マックが逃げ惑うシーンにつながるようだ。

結局はこの映画も、ある程度は楽しめるようにできているお決まりの構造で、それがハリウッド映画の気軽さでもあり、つまらなさでもある。

最後にあのキャサリンのメイクに関して一言。常にどのような状況下でも目の上下に黒いラインをいれて、同じようなメイクをバッチシほどこしている。

化粧の臭いが漂うようなあの色はなんとかならないのだろうか。状況や時と場合によってはメイクに大きな変化をつけていればそれほど違和感を感じないだろうが、あれでは緊張感もどこかに吹き飛んでしまう。

立野 浩超

オープン・ユア・アイズ

謎めいているはずのストーリーが、確かに謎なのだが単にむちゃくちゃな組み立てをしてストーリーをごまかした挙げ句、結論を強引にもってきて結びとしているようだ。これが東京国際映画祭でグランプリを取ってしまう辺りに、東京国際映画祭がまだまだ世界的には認められていない、また日本人にも賞の重要性が認められない理由があるのだろう。

「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」(★★★★★)がグランプリであれば文句なかったのだが。

スペイン映画界のみならず世界中の女優の中で最近もっとも魅力を感じる女優、ペネロペ・クルスの魅力はあえてここで私がいうまでもないが、スペイン人の25才、現在最も美しいスペイン女性と言われ、アカデミー外国映画賞をとった「ベルエポック」に出演していた。あの美しさは日本人のみならず魅了される。最近日本ではちょうど続けさまに何本かの映画が公開されたため、非常に多作に出演していると錯覚するのだが、資料をのぞくと年間3、4本の映画にここ4年間は出演し続けている。人気のある役者の証拠だった。この点では演技面でもすでに定番の評価を得ているとも言えるのだろう。

しかし彼女がいくら美しくても、周りの役者がいくら唸らせるような演技をしていたとしても、この映画はストーリーをもう少し練り直し、謎を的確に見せなくてはだめだ。

昨年の映画祭で見逃し、期待していた映画だったが残念だ。

立野 浩超

π(パイ)

★★★

低予算でつくった映画といっても約 700 万円かかっている。映画つくりとはいかにお金がかかるのかを実感する。

白黒でつられた映画にはカラーで観たくなってしまう作品もあるが、この映画は予算面で当初から白黒を余儀なくされている為か、人物、セット、ロケーション、ストーリーまでも白黒に合っているため、カラーでは魅力が半減するだろう。また、この映画のできが良いためカラーでリメイクをつくるとしたらこれ以上のものはできないのではないだろうか。それほどこの白黒映画はうまい。

数学者マクシミリアン・コーエンが取り付かれたのはすべての事象の数学化。実際物語上、株式市場の予測を数学でやろうとしているが、これが金儲けの為ではないことは「金などほしくない」というセリフで表されている。数式の正誤が翌日に証明されるためにこれを選び、そのために物語が意味をもつ。金を産む数式をねらうマフィア、カバラの謎を解かんとするユダヤ教徒、そして彼自身。

撮影は実にマニアックで、アメリカ人とは思えない。ヨーロッパ映画のアンダーグラウンドな作風だ。手で書き留める文字(数字)をアップで撮ったり、安ホテルのようなせまい部屋で主体に近づいての撮影。それらがこの映画の最大の魅力の一つであろう。物語が身近に展開されているような錯覚を生じるからだ。

ただし、癖のある映像は2回、3回とは使えないだろう。すでに撮影が終わるころであろう次回作で彼らしさがどこまで残っているか興味深い。

この映画はサンダンスで賞をとっているだけあって、見ごたえあり、その評判からか、金曜日のレイトショーにはほぼ満席の様子。

レイトでこれだけ観客が入れば、シネマライズ経営者はほくほくの笑顔だろう。30分前には並びましょう。

立野 浩超