白い風船

★★

キネカ大森は今回のイラン映画特集、続いて第2弾イラン映画特集、同時に予定されるウッディ・アレン特集といった企画力が非常に魅力的だ。キネカ大森に関してはScreenKiss Vol.6で紹介しているので参考にしてください。

今回は見逃していた白い風船を観た。多くの人はビデオ発売まで待ち、レンタルビデオを観るだろうが、やはり映画館でみるとまったく印象がことなる為、できるだけ見逃した場合は映画館でのリバイバルを探している。そのことが日本の映画館の経営を少しでも助け、映画界の活性化につながるのではなかろうか。

しかし、★数のなかでは平気で1つをつけたりしてしまい、それをメールマガジンに流しているのだから、多少矛盾はしているだろいうが、大体上映後数週間してからの批評だから、それほど影響はあるまい。

さて、かなり雑な作りの映画でイランの映画界の状況を実感する。まず撮影テクニックがイマイチで、人間のアップ(上半身)を撮影するシーンのほとんどは頭のてっぺんが切れている。たしかに顔を強調するためにわざと髪の毛の部分をフレームから外すことはあるが、この映画の場合そうすべきカットではなかった。また編集は唐突であったり、まのびしたりと、フィルムを切るべきところで切られていない印象。映画をみている最中にある事を不満に思ってしまうとなんだか体がなまって、じっとしていられなくなるが、そんな映画だ。

今回の上映ではこの映画館にも問題がある。まず座って、本編前の宣伝で気付いたのだが、通路の足物を照らす豆電球のようなフットライトのカバーがはずれていた。その為裸光が目に届くのだ。その程度の小さな明かりでさえ、真暗な劇場中では非常にまぶしくなる。至急修理をしていただきたい。

また、フィルムが古くなると(だいたい5年をすぎると)フィルムがいたんでくるため映像がノイズまじりのようにちかちかしてしまい、音声(音楽)も質が落ちてくる。それはしょうがないし、イラン映画の音声自体がそれほどクリアではないこともわかっている。

しかし、今回は劇場内のボリュームに問題があった。少々大きすぎた為、丁度ノイズが耳触りになり、音が割れているように聞こえてしまった。これも不快感を助長させる。最近のシネマコンプレックス館では、上映回ごとに係員がボリューム等の場内の環境チェックを行っていると聞く。何度も入ってくることはミニシアターでは余計なお世話となりかねないのだが、毎回1度はチェックをしたほうがいいのは間違いない。

ただし、人によってかなりこの最適な環境設定が異なるため、もちろん万人に受け入れられる環境設定は不可能だろう。今回はそれを理解していても、ボリュームは適切なものではなかった。もうすこし下げるべきだ。映画によっては大音量が魅力をます場合もあるが、題材によってはその必要がないものも多い。イラン映画にもその必要はないだろう。

さて、イラン映画のエンディングはいつもほのかな感動を感じつつ、あまりに単純だが純粋なエンディングに新鮮さを感じることがある。「白い風船」という題はエンディングで、風船売りの少年が持つ棒の先っぽにくっついている売れ残った1つの白い風船よってインスパイアされているのだろう。ペルシャ語の原題、英題も Le Ballon Blanc(白い風船)となる。

最後の最後で題名を意識させて、その意味に気付いた後しばらく余韻を感じることができるいい題名だ。

立野 浩超

黒猫・白猫

今回は8月21日(土)公開予定の新作のご紹介です。

『黒猫・白猫』1998年 仏・独・ユーゴ合作、ユーゴスラビア映画1998年 ヴェネチア映画祭銀獅子賞最優秀監督賞受賞

監督:エミール・クストリッツァ出演:バイラム・セヴェルジャン、スルジャン・トドロヴィッチ、ブランカ・カティチ、フロリアン・アイディーニ

□ストーリー
ある夏の日のドナウ川のほとり。ザーレの双眼鏡には、賭け事に夢中の父マトゥコとたくさんの家畜たちが写っている。マトゥコは父ザーリェに見限られ、ザーリェの親友グルガに金の無心をするが、金と引き換えたのは石油列車強盗。

もとより、そんな勇気が彼にある筈もなく、新興ヤクザのダダンの協力を仰ぐ。が、計画は失敗し、弁償にダダンのいき遅れの妹、アフロディタとザーレの結婚を迫られる。

だが、ザーレは酒場の娘、イダと愛し合っており、アフロディタは夢の恋人との出会いを信じていて、2人ともこの結婚には不服だ。結婚式から脱走したアフロディタは森で目出たく恋人と出会い、ザーレは“黒猫”と“白猫”を証人にイダとの結婚を敢行してしまう。

□コメント
何とも騒々しくって、可笑しくって、パワフルな映画だ。字幕をつけられた山崎先生をお尋ねした際、丁度仕上げられたばかりの作品がまさにこの『白猫・黒猫』。ロマ語の上に早いテンポ。御苦労のお話を伺っていただけに、納得だった。

さて、前作『アンダー・グラウンド』で、ユーゴスラビアの一大叙事詩を書き上げたクストリッツァ監督、この作品での政治的な毀誉褒貶にうんざりして、一時は“引退宣言”まで伝えられたが(実は誤報だったらしい)今回はコメディ作品でカムバックしてくれた。それもとびきりハイテンションで。

今迄以上にロマのパワフルな生き方に焦点を当てつつも、車を食べるブタに見える国の変化の表現や(この車、トラヴァントといってボディが樹脂製らしい。今では生産中止らしいが、何でも食べて自由にしておくブタ程美味しい食肉になるというイメージから)、首吊りの場面等、彼独特の「お約束」は健在。

何より、いつもながら出演動物は多い。いつでも同じ方向に皆で歩いているアヒルや、同じ輪を回りつづけるリスも意味ありげだが、今回はタイトルロールが必ず重要な場面でも目撃者として存在している。しかも白、黒いつもペアで。

この猫の色がまた寓話的で如何様にも解釈出来る。

一般に黒猫は、不幸等のマイナス的存在。可愛い孫の不本意な結婚を、その「死」でもって、まさに身を持って防ごうとした、爺性愛?のザーリェ。だが、結婚を何としてでも強行したいダダンが氷を乗せて隠蔽工作。

時を同じくしてゴッドファーザーとして君臨していた親友グルガもぽっくり。仲良く氷を乗せられるが、結婚式でのごたごた後に目覚める。この、結婚と死、死と目覚め(蘇生)という相容れないような状況には必ずや猫が見守っているのだ。

昔気質のグルガ一家と新興ヤクザのダダンや、パソコンなどの文明的機器を手にしながらも、呪文を唱えて孫の為に死んでしまうといった、不思議な部分や迷信的要素との共存等も猫の黒、白に表現されるコントラストに通じる。

何しろ携帯電話の一方で、電柱に水を撒くと電話がよく聞こえるとか、揺りかご風ベッドに寝ながら、繰り返し見るビデオが『カサブランカ』だったりするのだ。

この『カサブランカ』はグルガが友情の話として大好きなのだが、監督の好きなヒーローが、この作品でのハンフリー・ボガードだというのも影響しているのかも。

しかし、猫達の一番の大役は、ラストでのザーレとイダの結婚の証人かもしれない。傍観者の立場から、いきなり物語の一旦を担うはめになってしまうのだから。

ここでは、「何と無茶苦茶な!」と言いながらもこの結婚を記録する戸籍官として、クストリッツァ映画の常連、ミキ・マノイロヴィッチが登場する。

(この人、フランス映画にも多く出演しているが、声がいい。そのせいか、最近ではフランス映画祭で上映された短編映画でヴァンサン・ペレーズがメガホンをとった『何も言わずに』で、電話の声だけで出演していた)

ほんの少しの出番ながら、彼を見るとクストリッツァ映画だ、という安心感?が生まれるから不思議だ。

そして、この場面では、冒頭でザーレがドナウ川のこちら側から覗いていた双眼鏡の対象が、今度は乗り込んだ船から今迄自分達のいた岸辺に変化している。次世代を担う彼らの視点として考えてもいいのかもしれない。

それにしても、全編を流れる音楽の楽しさといったら。独特のジプシーの音楽に加え、場面にぴったりのロック等も配しているが、中でもザーリェの退院祝い等で登場するNO SMOKINGというバンドが面白い。

祭りのシーンでは樹木に張り付いて演奏していたりする。このバンドは昔、監督自身が演奏していた事もあるという。何でも有りの雑多な世界は音楽にも表れているわけだ。

出演者はほとんどがロマの素人。存在感のあるゴッドファーザー役も、今は隠居ながら嘗ては駅の靴磨き店の経営者とか。トニー・ガトリフ監督の『ガッジョ・ディーロ』でもアマチュアのロマの人が堂々、主役級を演じていて、それがまた自然で吃驚したものだが彼等は天性の芸術家なのだろうか。

(実際は台詞なんて無視して演技する彼らにクストリッツァ監督も手を焼き、時に爆発したらしい。が、反面それを彼らの魅力として画面に反映させたのは、監督の手腕だ)

数少ない?プロ俳優では、ミステリアスな魅力のイダ役、ブランカ・カティチや、ザーレを演じるきりりとした二枚目のフロリアン・アイディーニといった若手もベテランに混じって頑張っている。

退院後に”人生は素晴らしい”と孫に言うザーリェの言葉に、ロマの生き方と監督のメッセージが凝縮されているのだと思う。

また、ボスニア内戦、コソボ紛争・・と哀しい話題の多いユーゴ情勢。人間が黒猫、白猫と色で分けているだけで彼らは「猫」であるのと同様、猫達から見れば、人種に関係なく「人間」の括りなのに、何故同じ種がこれ程までに傷つけあっているのか。

一見雑多に見えるこの映画の世界の方が本来の姿なのかもしれない。

何はともあれ、元気になれる、この夏のお薦めの1本だ。

<蛇足>ちなみに、クストリッツァ監督作品は全て、どこかしら有名な映画祭で受賞している。『ジプシーのとき』(1989年)等と比較しても面白いだろう。

また、監督自身は、新作『ヴーヴ・ドゥ・サンピエール』(原題)という作品で、俳優として出演している。ちなみに、この作品の監督はパトリス・ルコントで、共演はJ・ビノシュ。コスチュームプレイらしい。(フランスでは?)来年公開予定とか。

スカートの翼ひろげて

★★★

原題は「THE LAND GIRLS」だったが、随分意味の異なる邦題に変えたものだ。

この映画はどちらかというと女性向けかつ、ある程度年輩なかたがたが楽しめる物だろう。映画館にも女性の姿が多かった。そのことから考えると、女性的な結構いい邦題になったのではなかろうか。

第2次世界対戦の最中、イギリスで農業に従事する女性を”農業促進婦人会”(女性農場兵士といったほうがいいだろう)と呼んだ。この女性達が、農業から離れ戦場に赴いた男達の仕事を引き継いだのだ。

3人の女性が主人公となり、この時代を駆けぬけていく姿を描いている。それぞれの性格で男性に対する行動は随分違い、それが笑いと共感をつくりだす。

男達には戦争下らしいハプニングがあり、簡単で分かりやすい映画だから誰にでも受け入れられるだろう。

最近3人の女性が主人公になっていた映画といえば、今年岩波ホールで記録的ロングランを続けた「宗家の三姉妹」が記憶に新しいが、この映画がそこまで人気がでることはないだろうが、観に来た人には受け入れられる内容だ。

男性には物足り内容だが、いま最も旬のイギリス女優レイチェル・ワイズの姿、しかも彼女に似合う時代設定とくればファンは必見であること間違いない。日本では「ハムナプトラ」に続き主役として登場となる。(ハムナプトラに関してはScreenKiss Vol34参照)

映画に関してはあまりコメントすることはないが、レイチェル・ワイズの活躍ぶりにはおどろくばかりだ。

ただし、これは日本の公開時期が続けざまであったことから感じる日本人にとっての印象であろ。実際「チェーン・リアクション」でキアヌ・リーブズと共演して以来、年間2、3本程度の出演で、主役ばかりではないことからまだまだ今後どこまで演技力を伸ばしていくかで彼女の役者人生が決まっていきそうだ。

今後 「The Taste of Sunshine」という映画に出演していることを確認したが、詳細はまだ不明です。皆さんが使われているインターネットで検索すればある程度のニュースは入手可能と思われますから、興味あるかたは一度調べてみては?

立野 浩超

アイズ・ワイド・シャット

★★★★

来年のアカデミー受賞式では、毎年恒例の”亡者の肖像”にスタンリー・キューブリク監督があの顔写真で紹介されると、会場は拍手が一段と高まる。そんなことを想像せずにはいられない状態でこの映画を観る。この映画のパンフレットの制作は公開第1週にまにあわなかった。監督の徹底的な秘密主義がもたらしたハプニングなのかもしれない。

そのおかげでストーリー、評価に関してはほとんど知識がないまま初日を迎え、特別キューブリック監督のファンでもないことも幸いし、ほとんど先入感なしで観ることができた。先入感があると判断が大きく鈍るが、それを排除している分、今回の★4つの評価には冷静に自身がもてる。一般的には監督の評価が高い場合先入感で評価されがちだし、映画作成秘話の噂を聞くといやがおうにも評価されてしまったりする。

この映画を観終えると脚本のストーリーの巧みさを実感する。8月7日より公開の「ロック、ストック&トゥー・・スモーキング・バレルズ」のように話が入り組んだ挙げ句、最後に1箇所に集約されるような巧みさではないが、トム・クルーズが1人で行動し、想像し、苦しんでいくことで完全に物語が一人称で進む中、ニコール・キッドマンとその他数人の感情が交差し、彼のなかに集約される。

これは見事な演出だ。感情をつき破るようなおおげさな表情の場面もないのに苦しみが伝わり、一流のホラーのごとくに汗を感じる。一流の犯罪推理もののように謎は深まり完結に近づく。

全編を通して全員の動きがスローテンポで、それを追いかけるカメラもゆっくりと動き、その時間の流れが観客に焦りを生む。人物をすこし引いた位置での撮影は、背景となる空間を広くとることで迷宮のごとき印象の室内をつくりだす。見事な撮影だ。特別変わったセットではないのに、その構図によりまったく異なった印象にさせる。

この点は「2001年 宇宙の旅」を思い出させた。宇宙空間を描くのに、すこし引いた場所から撮影することにより空間の広がりを描いている。ハル(コンピュータ)のスローな話しかけや、宇宙飛行士達の台詞の少なさ、無駄な音楽、効果音を省き真空の無音状態を実感させるとともに恐怖心をあおっていく。

宣伝ではセックスシーンに対して過剰反応があるが、今の世の中この程度のシーンはテレビでも氾濫しているし、ヘアーが見えるシーンに対してはフランス映画をよく観ている人達にはごく普通のことだろう。しかしその使い方には十分テクニックが感じられるし、最後まできれいだ。

18禁(18才以下は観る事ができない)ではあるが、日本の映画館はチェックが甘いし、まわりを見回す限り数人は明らかに18才以下だった。今後レンタルビデオでの扱いが気になる。この映画のように、今をそのまま突き進むような映画には映論ご担当者にも時代の勉強と若返りが必要ではなかろうか。もちろん世界的にいえることなのだろうが。

立野 浩超

踊れトスカーナ

ストーリー
トスカーナの片田舎で会計士を勤めるレバンテの家に、ひょんな事からスペインのフラメンコダンサーを乗せたバスが到着し、更に一行を泊める事に。平凡な彼らとこの町にとってそれは台風(原題は”Il Ciclone”=サイクロン)並みの出来事だった。

興奮した父はさらに鼾が大きくなるし、ワインつくりをしながらもゲージツ家の弟は、明るい絵に転向。レズの妹とレバンテにはそれぞれのお目当てのダンサーが。

そして、ダンサー達の移動が決まり・・・

※この中で、不思議な名優が3人いる。作中では1度も役名?を呼ばれなかった飼い犬役のLilliと、声だけで1度も姿を見せない祖父のジーノ。それに、レバンテの心中の声。登場人物が皆どこか変で、何故かオーバーアクション。葡萄栽培の為の緑青噴霧器を背中に、リズムをとる姿は明和電気みたいな弟、たらお君がそのまま大人になったような妹と、彼らのネーミングも、レバンテ(決起)、リーベロ(自由)、セルバジャ(野生?)。着ているTシャツには「癇癪持ち」なんて書かれていて、何かはずれた可笑しさが全編を覆っている。

カテリーナ(この女優さん、梅宮アンナとジュリア・ロバーツを足して2で割ったような感じだった)と、几帳面なレバンテの恋愛模様は平凡だが、面白い。小道具としてのブーメランや、家に活気が帯びると電界が生じるという設定も小粋だ。植物でも音楽を聞かせたりすると、微少ながら電流が生じるというから、まんざら嘘でもないし。

一面のひまわり畑、ノリのいい音楽。レバンテの心情を表現するバイクや、日記風に綴っていくところは、ナンニ・モレッティ的でもあるが、ハッピーエンドながら『ライフ・イズ・ビューティフル』にも通じるイタリア的なテンポの良さ。原案、脚本、監督、主演の4役をこなした、レオナルド・ピエラッチョーニは張り切り過ぎず、バランスよくまとめている。気分の落ち込んでいる時、是非お薦めの作品。

私事だが、筆者のボスはイタリア人。仕事での衝突は日常茶飯事で、この日も憂さ晴らしにこの映画を見に行ったところ、登場人物の仕種や表情がどことなく彼に似ていて、イタリア映画を見に来たことを大後悔。(おまけに彼はバイク通勤している)しかし、日頃の恨みも忘れてしてしまう程可笑しくて、楽しめた作品でした。

鳥野 韻子

大地と自由

監督:ケン・ローチ

★★★

この映画は評価すべき映画のようなきがするが、どうしても総合的に考えた際に抜けている点がみられる。彼のイギリスを舞台とした作品ではありえないようなミスがそこには存在するかのようだ。今回はリバイバルで上映されていたものを観た後の評価だが、前回1年くらい前、ロードショーの時にも同様に退屈な作品と感じたものだ。

オープニングは一人の老人が亡くなり、孫娘が彼のスクラップした新聞や当時の手紙を読み返し、時代をさかのぼり彼が生きた”真の自由を求める闘争の日々”を回想するという設定。ときたま彼女がそれらを読んでいるシーンにもどり、彼女がピザを食べ、ベックビール(瓶ビール)を飲んでいるところを見せる辺りはリアリズムの監督ケン・ローチらしい。観終わった後同じ行動の衝動にかられる。つまり思わずビザを食べにいってしまった。

ちなみに撮影はバリー・エイクロイドで、いままで「リフ・ラフ」から始まり「レディーバード・レディーバード」「カルラの歌」「マイ・ネーム・イズ・ジョー」と同じ色合い、かつその撮影題材にそった微妙な表現力を使い分けている。しかし、残念ながらこの作品では十分その力量が発揮されているようには感じられなかった。「カルラの歌」の場合もそう感じたのだが、エイクロイドはイギリスの風土の中では映画に必要な部分を誇張する事も、切り取るように一面だけを抜き出す事もできるテクニックをもった人だが、一歩国を出るとイギリスでのテクニックをそのままはめ込んで使用しているようだ。つまり、土地の違いが表現されているとは思えないということ。

また、意図的な感情移入を誘わないような客観的な表現で撮影をしているのだが、その傍観者としての目の重要さはケン・ローチの映画の上であるから理解できる。ところが逆に必要なときもあると思うし、そのような時には中途半端に心情を映し出し感情をあらわにするシーンがある。銃撃のさなか、エンディング近くの前線地帯で部隊が投降させられるシーンなどは残念ながら緊迫感のたりない映像になっている。その方法がケン・ローチの一貫した姿勢でもあるが、ケン・ローチも題材によっては苦手なシーンがあるようだ。

孫娘が読み返すという設定、かつラストでは彼女が詩を朗読し、無表情に「土くれ」をかけているその表情は最初から最後の一コマまで一貫して、感情を大きく誇張しないまま終わりを迎える。(注意してもらいたいのは、もちろん泣いたり怒ったりの感情の起伏は映画の中にいくらでもあるが、その撮影がその感情を誇張しない、まるで設置カメラが偶然捕らえたかのようなままで捕らえているということ。)

祖父のおこなったその闘争が現代に生きる彼女にとってどういう意味を持っているのかは一切押し付ける事なく、表面に押し出さずに、観客一人一人が彼女と同じ立場に立たされて同じように自分の意見で感じる権利があるかのようだ。

公平で、上手い手法だが、多少退屈な内容であることが一番の問題か。

ケン・ローチファンには頭に来る表現なのかも知れませんが、私の自由に基づき書いておりますので、ご了承を。

立野 浩超

ケス

監督:ケン・ローチ

★★★★★(満点)

映画を観終わった後、その映画が体に自然にしみこんでいくような感覚がある。女性と男性ではこの映画に対する(感想ではなく)感覚がかなり違うのではないだろうか。主人公が少年(ビリー)であり、女性で唯一でてくるのは母親という設定、子供のころの少年独特の行動が盛りこまれている辺りがその原因だろう。

さて、この映画はスタンダードサイズで撮影されている為、画面の幅がかなり狭い。しかしその為だろか非常にピントがあっていて、特に人物を追いかけるシーンでも常に画面全体がクリアに表現されている。これは非常に重要だ。いつも大きい画面(アメリカンビスタサイズ、シネスコープ)に見慣れている為テレビのサイズに近いその画面に迫力不足を感じる人もいることだろうが、幅の広い画面ではしょっちゅうピントのあっていないシーンに出くわし、その度に映画のストーリとは関係ないのだが興ざめすることがあるのは私一人ではなかろう。特に動いている人物を追いかけるシーン。人物が手前から奥に動いたりすればほぼ確実にピントがずれている。もちろん原因はサイズの違いから生じているだけではないが。

フォーカスだけではなく画面の美しさにほれぼれするシーンと言えば、ビリーが森を抜ける時樹上から撮影しているかの角度で彼を追っていくシーンと、芝の上でハヤブサを訓練するシーン。彼は遊びながら、かつ真剣に動きまわっている。その態度に演技という言葉は感じられない。

また、画面の角々まで、手前から奥に広がる風景がまるで絵画のように描かれている。まさしく丁寧に描かれた18世紀の風景絵画のように視線をむけるとその細かい描写におどろいてしまう。自然の景色ではなく、計算して作られたセットのようでもあり、しかしセットでは決してまねできない美しさがある。

この2つのシーンは話が進む中で必然的に何度か使われるのだが、その度にこの映画を観つづけることに楽しみを感じてしまった。非常に個人的な感想だが、どうも本当にこの映画が自分の波長に合うようだ。

また特筆すべきはこの子供、少年たちの演技であろう。この場合少年とはビリーとけんかする同級生の男の子まで、つまり学校の生徒達のことを言っていて、ビリーの兄(ジャド)は入らない。ジャドの演技はまったく話にならないので、わざわざ説明するまでもないだろう。意識して演じすぎているから、単に演技になってしまったのだ。

子供が主役の場合、その純粋な演技は特に重要になっていく。どんなにその他の要素が完璧であったとしても名作となるにはこの部分が重要で必要不可欠だ。その反対にこれが十分存在していれば、すこしくらい他の要素に欠陥があったとしても、なんとか名作に仲間入りできそうなものだ。

しかし、この演技という言葉はあくまでも大人の視線、観客の視線にたって言っている言葉で、実際あの少年たちは演技をしているというよりも、ありのまま自分達の生活の一部を見せているだけなのではないだろうか。つまりこのように見せることができる脚色で脚本を仕上げていった監督の才能が、子供というフィルターを通してしみでているということだ。

演技がへたな子供を使った場合、というよりも子供の演技の仕上がりを決めるのは大人達であろうから、そのへたな結果を産み出すような脚本や、監督の意識がその程度であった作品の場合は、どんなに基本的な内容がよくても評価がいま一歩となってしまう。こういう映画は監督の失敗といえるだろう。最近公開の作品では「キャメロットガーデンの少女」がその手の失敗作だった。

立野 浩超

演じるのは好きでも、人嫌い

俳優 ジェラール・トマサンのインタビュー

「正直言って、俳優としての仕事、演じるという以外の部分については、あまり興味がないです。試写会や打ち上げのパーティーなんかも嫌いですし、業界の人達とも全くつきあいません。インタビューも嫌いだし…。

でも、この仕事は好きですよ。それは確かです。まあ僕は、非社交的で人嫌いな役者の一人ってことですね。

役者仲間でつき合うのは、ロシディー・ゼムとか、エロディ・ブシェーズくらいなんですが、その数少ない友人に電話をかける事すらありません。」

こうきっぱり語ったのは、ジャック・ドワイヨン監督「ピストルと少年」で少年役を演じたジェラール・トマサン。最新作「Calino Maneige」が先日封切られた際の、リベラシォン紙のインタビューで。

ハムナプトラ

なぜこんなに面白くなかったのか考えるのもいやになる。

まずはテンポに問題があるのではなかろうか。アクションとコメディーを融合した映画にとってはつぎつぎとくるハプニングによりひきつけられて、いったんそれを休みお色気シーンを持ってきたかと思うと、次の悪役登場となる。こういった展開のスピード感が必要だが、この映画は休みの部分が多いこと、各ハプニングにそれほど驚きがないこと、お色気がないことが原因ではないだろうか。

レイチェル・ワイズの魅力は十分であることは、最近公開が続いている彼女が出演している映画をみればよく分かる為、女優の選択に不満はない。この年代の役をこなせる雰囲気が彼女の顔にあり、イギリスを代表する女優にそだっていることに間違いはなく、「輝きの海」のような文学的な役と共に、こうやってキャメロン・ディアス風のコメディータッチもこなせるいやみのない女優だ。

主演のブレンダン・フレイザーには金をかけずにCGに金をかけたというニュアンスも気にいった。ブレンダンが今後大きく飛躍するかどうかはまだ分からないが、1人の役者に数十億円もの金をつぎこみセットすらおろそかになるよりも、よっぽど評価にあたいする取り組みだろう。残念ながら、

脚本家、監督たちが目指したであろうインディ・ジョーンズには遠く及ばない内容だった。CGに関して言えば、砂のCG表現が難しいということを考えてわざわざ見れば「すごい」と言えるのだろうが、そんなことをいちいち考えて見ないのでやはりこの程度でこんなにお金がかかってしまうのかと疑問を持ってしまう。

それではどうしてアメリカではある程度の興行収入(約50億円)をあげることができたのか。その答えはここしばらくこの手の冒険物がなかったことでタイミングが良かったということ。私もインディ・ジョーンズ以来冒険物にたいするあこがれがあり、ハムナプトラのチラシの文句である「インディ・ジョーンズから10年」。まるで続編のような言葉ではないか。これにつられてついつい遅ればせながら見に行ってしまうというような人が多いはずで、かつ子供にとっても悪影響がある映画ではなく家族づれで人数をかせいだのではなかろうか。

とにかく、冒険物はファンがいて、彼らが1回観にいくだけである程度かせげるのだろう。

立野 浩超

レオス・カラックスの「ポーラX」

知ってた?たった37フラン(約 740 円)で、ストラスブール大通りの映画館パリ・シネ(le Paris Cine)で、2本も映画が見れることを。

今週は「ポーラX」と「Les mercenaires de l’espace(仮題:宇宙の戦士)」が上演されている。この2本の内、私は、フランス語版の1本しか知らないのだけれど。もともと、すぐに見れなくなってしまうかもしれないカラックスの作品しか見る積もりもなかったし。

(私は、この場をかりて、言わずに我慢できない愚痴を言わせてもらう。今ではポスターに載っている映画は、目もくらむような速さで次の作品と入れ替わってしまうのだ!

新作を見に行くことは、まさに蝶々取りと同じになってしまった。それほど、映画の命は、束の間のものとなってしまった。その後では、ビデオで防腐処置が施されるというわけだ)

私たちの蝶々に話しを戻そう、まさにカンヌで、完全に忘れ去られていた不名誉を巻き起こしたこの「ポーラX」に。

この作品は、素晴らしい結婚を約束されていたある若い作家の話しである。彼の作家としての成功は、彼が守ってきた神秘性と関係がある。彼は自分の顔を公の場に出すことを拒んできたのだ。

ところがそこに彼に執拗に付きまとう存在が現れる。彼女は、彼の妹だと名のる東の国から逃れてきた難民だった。彼女のために彼は全てを失ってしまうことになる。

アメリカの作家ハーマン・メルビルの小説を脚色したこの映画は、撮影の簡潔さあるいはカラックスが今までやってきたことの放棄によって注目される。

レオス・カラックスは、「ボーイ・ミーツ・ガール」の気取らない魔法や、「汚れた血」のコマ続きのような夢幻映像、また「ポンヌフの恋人」の大掛かりな豪華さ、これら全てを生み出したものを捨て去ったのだ。

確かに彼は、(太陽に照らされたノルマンディーの豪邸から、リトアニア人のシネアスト、シャルナ・バルタが不法入居した家にいたるまでの)映画の舞台セットや、(ギヨーム・ドパルデュー、褐色の髪のカテリナ・ゴリュブヴァ、ブロンドの髪のデルフィヌ・チュイヨの)感情の高ぶりを感じさせる肉体から、映画が持つ輝きを守った。

(金髪を輝かせ、その後姿を見せていたドヌーブのように)映画崇拝者の見事な映像は、詩情さえ感じさせてくれる。

最後に、現代的と言えるのは、鳴り止むことのない、また会話が途切れることのないコードレス電話である。始めのシークエンスの中では、見知らぬ声のしゃがれた息遣いを聞かせるのは、誰からか分からない電話であった。

しかし撮影するために、カラックスは、低い予算で彼の願望を再検討したのだ。彼はもはや彼自身、誰のため息か分からないものしか吐き出すことも出来なかったのか?あるいは、暗く陰鬱になりかけていた世の中で映画を作ることに苦しんでいるのか?まさにその暗さは、映写室を連想させる。

それでは、そこに戻ろう。パリ・シネの暗い映画館の中では、テレビなどの多重通信の中で起きていることとは逆に、映画は、変わることなく、そしていちゃつく男たちやいびきをかく酔っ払いに台無しにされている。そのうえ、トイレの中での男性バレエにも似た戯れは、映画を見るのとはまた違った楽しを思い描かせる。

受け入れにくいやり方をする映画監督の最新作は、ぼんやりした観客ばかりやって来るこの映画館の中に、奇妙にも逃げ場所を見つけ出している。カラックスはフランス語版の宇宙の戦士(un mercenaire de l’espace)に成り果てたのか?

少なくとも、羽を焼かれたイカロスは、その燃え滓しか残ってはいないとしてもさえない現在の映画製作からすればそれでもやはりまだ熱くほてっているのだ。

しかも、パリ・シネで燃え出したのは、まさに映画のフィルムだった。そのため映写は二度中断され、映画のラストを見ることも出来なかった。結局のところ、6ユーロ払って、私は一つの映画しか見れないのだ。それも、最後まで満足に見れないとは!

注)1ユーロは、6.55957 フラン。