少年たち

■少年たち PETITS FRERES 1998年
監督:ジャック・ドワイヨン
出演:ステファニー・トゥリー/イリエス・セフラウイ

ストーリー
不埒な義父を嫌い愛犬キムと家出した13歳のタリア。彼女はパリ郊外パンタンでイリエスら同年代の少年たちと知り合う。小遣い稼ぎにとキムを盗んだ彼らをタリアは最初拒むが、やがてイリエスとの間に淡い恋が芽生え、皆とも打ち解けていく。だが義父は幼い妹に暴行を加えていた……。

コメント
この作品を撮ったのは「アフリカ、中近東からの移民など経済的に困難な立場にあるマイノリティーの子供たちの現状を知ってもらいたかったと同時に、逆境でしたたかになりながらも子供らしさを失わない彼らを紹介したかったから」とドワイヨン監督。

出演者もプロデューサーも共にせず一人で来日した監督だが、舞台挨拶でもティーチインでも身振り手振りを交えてユーモラスに喋り(しかもよく喋ること)、会場を沸かせていた。

アステリクスとオベリクス

■アステリクスとオベリクス ASTERIX ET OBELIX CONTRE CESAR 1999年
監督:クロード・ジディ
出演:ジェラール・ドパルデュー/クリスチャン・クラヴィエ/ロベルト・ベニーニ

ストーリー
シーザーのローマ時代、フランスに無敵を誇るガリア人の村があった。代々伝わる魔法の薬を飲むと村人は百人力になれるのだ。シーザー失脚を目論む臣下デトリテュスは村を攻撃し薬を手に入れる。悪用されてはならじと、村の仲良しコンビ、アステリクスとオベリクスがローマ軍に潜入して大暴れ。さて結末はいかに。

コメント
フランスで根強い人気のコミックを映画化。チビだが賢いアステリクス(クラヴィエ)と巨漢で力持ちだがオツムの弱いオベリクス(ドパルデュー)のでこぼこコンビが繰り広げるドタバタ喜劇で、特殊効果もふんだんに使ってある。

ジディ監督は原作の忠実な解釈(再現ではない)にこだわったそうで、シナリオ作りと舞台となる村のセット、衣装にとくに凝ったとか。今回、監督と共に来日したのは残念ながらヒロイン、ファルバラ役のレティシア・カスタのみだったが、本作品が映画デビューだという彼女も「セットがあまりに素晴らしいので、両親と妹を見せに連れて行きました」とのこと。

冬の少年

■冬の少年 LA CLASSE DE NEIGE 1998年
監督:クロード・ミレール
出演:クレマン・ヴァン・デン・ベルグ/ロクマン・ナルルカン

ストーリー
12歳のニコラは孤独で夢見がちな少年。冬のスキー教室でも夢想癖が抜けない。隣村で少年が行方不明になると、彼はルームメイトに事件についての作り話をする。ところがそれが思わぬ真相を導く結果に……。

コメント
かなりサイコな趣の作品。厳しすぎる父親への反発や愛情の飢えを夢想でまぎらす少年期の心理が表現されている。が、ニコラの夢想はときに残酷で、ゆえに映像もショッキング。これがミレールの作品?と驚いた。

もっとも、上映後のティーチインでは、その辺を突っ込まれて「自分も子供のときに夢は見たが残酷なものではなかった」と監督。今回はニコラ役のベルグ少年、スキー学校の先生役の女優エマニュエル・ベルコも来日し、サイン会では紅顔のベルグ少年がなかなかモテてました。

STAR WARS

皆さんご存じの通りいよいよ日本上陸です。

6月12日の有楽町での大試写会以来、初上映が6月26日の先々行オールナイトとなり、つまりこの日が実質オープニング。

早朝から座り込んで列の先頭を埋めた一部コスプレ、最低でもSTAR WARS-Tシャツを着ていたファンのことは新聞、テレビでご存じでしょうが、実際は約3時間前には並ぶ必要があったようだ。

私が観た、ジュラッシックパークの時はそれほど混みあっていなかった印象の川崎のチネチッタ(チネグランデ844席)では8時からの上映で都内で一番先に見られるということもあり、2時間前にはすでに400人を超す列ができていた。

会場7時の前に、列の順にパンフレットの販売が行われ、最後に達する前に売りきれ。仕入れが現定数ということで当日ほしくても手に入らなかった人もいたありさま。これも策略かと思ったが実際あの800円の写真満載のパンフレットは信じられないほど売れていた。これほど売れるのも本当に珍しいですね。映画を観る前には決してパンフレットを購入しないポリシーでも、あの雰囲気では買ってしまうだろう。私の前の列のほぼ7割が購入したと思われる。もちろん会場後も館内のグッズ販売コーナーには列が上映間近まで途切れることなく続き、多くの品目が売りきれ状態。形態電話ストラップは 「ヨーダしか手に入らないよ」との声が聞こえてくる。

この雰囲気はまるで某映画祭のオープニングを思わせる。しかしゲストもないのにこの熱気にはあきれる部分も正直いってあるが、STAR WARSファンの多さを実感する。年輩者の数人のグループが「ヨーダが若く見えるんだって。髪が多いらしいよ。」と盛りあがるのをに耳をかたむけると、少々間違えた記憶を曖昧に話しているようだが、この映画を楽しもうという周囲の気運が伝わる。

さて、映画に関して書くとついつい批判ばかりになりがちだが、果たしてこの映画に対して批判が可能かどうか自分に対して疑問を感じてしまう。なぜなら私も1ファンだからだ。

まずオープニンブ前の最初の宇宙に消えていく字幕に関しては何も言うことないだろう。あれは一種の特許のような物で、洗練されたオープニングであり、ソール・バスも驚きの文字の演出だ。これをしっかり読むことは確かにストーリの理解を助けてくれる反面、まったく読めなかった場合でも全体のストーリーの骨格がしっかり している為か難なく理解できていく。

引き続き2人のジェダイが多少のアクションをこなしながら進展してくあたりは確かにいい構成となって、観客を引きつけながら物語の骨格をしっかりと形作る。このあたりは観終わった後では忘れがちで脚本のよしあしの判断には入れられないことが多いが私にとっては最も重要な要素の一つとなる。簡単なことのように思われるがこれがなかなか難しく、フランス映画祭のコメントでも触れたが、この前半には説明口調になり人物関係をはっきりさせることに徹した場合の退屈さがない。STAR WARSシリーズでは最初の第1作・新たなる希望(77年)でも同様に唐突なオープニングを見せつけられている点を考えると、この映画が本来9部作であることを思いださせる。1本2時間だとすると合計18時間の映画なのだから、細かい説明は省いても全体像が見えてくるといったところだろう。

但しまれに映画界の中には「実はこの映画は8時間物として撮影している。配給会社の意向に制約されて編集で2時間にした。」というわけのわからない発言があるが、もしオリジナルのまま8時間見せつけられた場合の退屈さは想像を絶する。

この映画は演技を見せる映画ではないが、ユアン・マクレガーは最近の映画を観る限り演技達者な役者だし、リーアム・ニーソンもそれなりの演技ができる役者だ。ナタリー・ポートマンはどうも演技が幼稚な気がするが、それでもあの衣装とへアースタイルで圧倒してくる。宣伝とおりにCGは美しく、更に実写部分との違和感がない映像をつくりあげている。舞台も次々と移り変わりその風景に驚きを感じる。素直に楽しめる映像で、それこそこのままディズニーランドに移してアトラクションのできあがりといったところ。

さらにダース・モールのいかにも塗りたくったフェイスペイントといい、はだかのままのC3-PO、CGではないヨーダの動き、3色そろったラートセーバーといいこの世界がスター・ウォーズだと言わしめている。

随所に日本的なデザイン、黒沢的なグンガン族の戦闘シーン、日本のロボット物アニメの影響を感じさせるメカニカルデザイン。いまにもハン・ソロ船長(ハリソン・フォード)がでてきそうなジャバ・ザ・ハットの城。文句のつけようがない。

ネタがばれていようが、実際に映画館にいかなければ損をする。また、映画館でみなければ観たうちに入らない。

とにかく必見。ただし、もしあなたがSFや、アクション物なんて観ないという人であれば、もちろんたとえこれを観てもその意見は変わらないでしょうから、そんな人がむりやり恋人に引っ張られて観てしまうことのないように注意。

立野 浩超

これが人生?

今年の一番はこれ。

まずこの映画は、前半と後半に大きくわけられる。前半、田舎の青年二コラ(エリック・カラヴァカ)とその家族、友人の間で繰り広げられる退屈なエピソードはごく普通の田舎を撮った映画の世界で、映画をたくさん観ている人達には退屈してしまうだろう。

ここをどうのこうのと言っても意味がないくらいに退屈ないくつかのエピソードを我慢して観ていくだけ。ひたすらこの後の為に人物関係を把握し、この田舎がどんな所かをイメージし、自分がそこに住んでいたかの様な想像力を働かせて後半に備える。

ただし、何度も言ってしまうがあまりその手助けにはならないひ弱な人物描写と、暗い映像には不満を感じる。こういった前置的な説明は様々な映画に見られるし、確かに必要な部分と言えるからそこを省くことも出来ないし、ここで退屈させない映画のみが傑作とよばれる様になるのだから、傑作の数少なさを考えると、いやはや難しい。

小説でも同じ事で、これは半分どうしようもないことなのかも知れない。編集しなおし、時間を10分もけずれば、テンポよく進んでいくのではないだろうか。(今後この映画の長さに関しても皆さんの意見を聞きたい。)

もちろん前半ということもありなんら考えることなく観つづける人もいるだろう。その場合、後半の圧倒的な美しさと迫力に、前半のことを忘れてしまうことだろう。そのうちスムースに話は流れ、後半に続いていく。

後半とは、祖父母と一緒に田舎暮らしを始めるあたりからだが、とたんに映像が冴えわたり、スト-リーにテンポがうまれ、人間性の捕らえ方が研ぎすまされていく。この変化はまるでニコラの心境の変化に重ねて描いているのではないかと期待してしまうくらいにもの凄い力を感じる。

ニコラが大人になっていくという事かもしれないし、自然の持つ迫力なのかもしれない。こう書いていると、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を思い出す。ストーリーは全く違うものだが主人公の心境にどこか結びつくものを感じる。

同時に、自然をバックに写し出される主人公ニコラやマリア(イザベル・ルノー)の体がまるで絵画の中の人物の様に美しく表現される。ミレーか、コローか、映像芸術といっても差し支えない名場面が続き、どっぷりとストーリよりも映像に浸ってしまう。まさしく、鳥肌がとまらないのだ。

これは決して監督の手腕だけでつくり出したのではなく、カメラ(撮影)をまわした日本人カメラマン(テツオ・ナガタ)の手腕が大きく、映画の中のカメラワークの大切さを感じさせるし、めったに映画を観ない人達でも簡単にカメラの重要性を理解できるだろう。

日本映画の貧弱なカメラワークと比べると、本当に日本人による撮影かと疑ってしまうのも無理ないだろう。

鍬で草を刈るニコラを前斜め下から仰ぎ見て撮る場面、マリアと2人で歩く秘密の場所の金色に輝く羊歯、潅木、土の美しさ。(ウッディ・アレンの「ブロードウェイと銃弾」でセントラルパークのベンチのシーンを思い出さずに入られない。)山の中腹から見下ろす谷間の煙り(霧)がかかる風景。実に美しい。しかもこの光量だと、テレビでは再生しきれないだろう。映画館だからころ表現されるこの深い色合い。決してテレビ(ビデオ)では理解出来ない深い感動が湧き起こっていく。

エンディングに関してもうなにも言う事が無い。見ていない人は必ず見なければならない名作の登場である。

しかし残念な事に、配給未定であり、実際配給されたとしてもいままでの例から考えると1年、2年先になるだろう。

その時また私も観にいくに違いない。

立野 浩超

オスカーとルシンダ

興味深い1品に対する2人の批評を比べてみてください。偶然評価が分かれたのですが、その捕らえ方を比べると、やはり映画も多面性のある芸術ということです。それぞれの文章の長さもこの映画に対する思い入れの差でしょうか。

「オスカーとルシンダ」===厳しい評===

プルミエール誌の評価はなかなかのものだったが、そのわりにいまいちの映画。

ただ、終盤のガラスの教会が川を上るシーンは名場面。さらに、この教会が沈む場面がこの映画の主題を全て語っているかのようだが、最後に陸へ引き上げられ、朽ちた教会を出してしまっては興ざめ。

いくつかのキリスト教的教訓を映画のメッセージとして捕らえても、人間関係の浅さと、その意味の曖昧さにはついていけない。主題の一つであるガラスの意味があまりにも単純で、賭け事の意味する表裏とガラスの果敢なさとの繋がりも感動しない。役者の選択もぱっとしない。もっとくせのある主役を使ってほしい役ではないか。なんだかんだ言っても、俳優によっては客がさらに入らなくなるかもしれないし、人気俳優をつかって無理やり客足を掴んでも、くだらない内容には変わりないだろうし。もちろん客の入らない映画は赤字となるし、そうなれば映画産業が縮小されるようでつらい。どちみち脚本のつめの甘さがこの映画の大失敗点。撮影はいいから、その為にみる価値はある。

立野 浩超

「オスカーとルシンダ」===評価高し===

物語の始まりの、ルシンダへの父と母からの誕生日の贈り物「涙ガラス」。この映画の手掛かりはここから始まっているのではないだろうか。(注釈:「涙ガラス」はなにか伝統的な意味がありそうだが、私には分からない。)どんなことをしても割れないと言い張る父親と母親。ルシンダはペンチで試してみるよう言われ、ペンチで「涙ガラス」の中ほどに力を込める。なにか不安そうにペンチに挟んだルシンダ、その瞬間粉々に跡形もなく割れてしまうなんて思いもつかない。そのプレゼントは一瞬の内に砕けてしまうのだ。「割れる」「割れない」信じるものは二つに一つ。ストーリーの入口のこの「賭け」、そしてそれはこの話のルシンダの生き方を暗示している。一方、自分の将来の進むべき道を石を投げて決定しているオスカーも同じく「賭け」ることから彼の行動が始まる。この言葉がこの物語(脚本)の映画に対する「賭け」だったのだろう。

ストーリーは単調に進んでいくのでつまらない。しかしオスカーとルシンダの一つ一つの場面が交差していくに従ってなんとなく一定のテーマがあるようで、「賭け」に対する推察が正しい事を感じ始める。ルシンダがオスカーに出会うシーンにしても二つあるドアを「どっちにしようかな、神様の言うとおり。」で決めている。もしももう一方のドアを開けていたらオスカーに出会っていなかっただろう。

物語の中には二者択一的な「賭け」がちらちらと現れ、「運命」(人生)は、「賭け」(偶然)の連続で、支配されていることを示唆している。このことは後のオスカーの台詞からもわかる。「天国に行けるかどうかなんてわからない、神に賭けているようなもの」と言う。「賭ける」ことを罪とする神、しかし人は天国に「行けるか」「行けないか」誰も結果の分からない、保証もない死後に賭けて思い思いの神に祈る。「運命」には「賭け」が関わっていることを、この極端な話の人物をとおして観客が考え始めていた。「賭け」の結果は常に不安定要素であり、誰も予期することはできない。人間は「賭け」という不安定な「運命」にまた運命づけられている。ルシンダもオスカーも私欲のために「賭け」(ギャンブル)をするのではない、不安定さに支配された「賭け」のなかで見出した彼らの「運命」だったということに皮肉っぽい面白さを感じる。ギャンブルを愛するルシンダは同じく不安定で一定の形を持たないガラスを愛す。ふわふわと水に身を任せて浮かぶルシンダ、ときどき現れるこのシーンにもまた、不安定に彼女の生き方を描き出していることが分かる。

この話から一般の善と悪の定義は実は不確かなもので、罪の根底となるものが本物の悪を秘めていないときに受けるべき罰は何なのか、ということを考えさせられた。人間が「正しい」と定義づけた生き方、行為は一体どこから来たものであり、そして人間はその根底にある「正しさ」をきちんと身につけて進歩してきたのかという深い問いかけを感じる。

ガラスの教会を無事に届けられるかという賭けにオスカーは自分の最大の財産である愛と命を賭けて出発する。形を成せば硬いが、不安定な性質を持っているガラスで出来た教会。神への侮辱と非難されるが、その教会を新たな勇気を携えて旅に出る。教会と共に地獄に落ちるか、天使の集まる教会を建てられるか。教会を無事に届けることができるかということは、ギャンブルをしてきたが今まで私欲はなかったと誓うオスカー、一方、神に対しては罪と認めて良心の呵責に悩んでいるオスカーにとって、彼が今まで罪と認めたものの底に「罪」があったのかという人生すべての「賭け」も含んでいる。神を侮辱するといわれるが、神を尊んで作られた教会を命がけで届けることで神が認めてくれるのかを賭けている。

この話の結末がどんなものになるか予想が付かなくてさらに興味がわいた。ガラスの教会がちょうど オープニングに出てきた父親たちの教会と対比されている。そのまま父と息子の生き方の対比にもとれる。この美しい場面に全てが集約されているように思われた。

はかなく、不安定なガラスに囲まれ一人座るオスカー、ガラスは今にも壊れそうで崩れるガラスの破片が彼の上に降る。人間はこの不安定な危険な「賭け」の真っ只中に一人一人が生きている。

私としてはこの印象を残して静かにTHE ENDになるほうが気持ち良かったのだが、彼は最後まで「運命」に振り回される。神に祈り懺悔している間に逃れられない死を迎えることになっていた。人を殺すに至る罪に内在する核心の善、この懺悔からドフトエフスキーの「罪と罰」でも問題となっている疑問も思い起こさせた。(興味あれば一読されよ)人間は自分が生きるに必要な「賭け」から生じる「運命」に翻弄される。そしてカオスの「運命」に賭けて前に進んでいく。

まるで伽話のようにオスカーの息子に語られるこの物語は子供には分からない難しい映画である。

三田(立野 の友人の映画マニア)

プライベート・ライアン

米国製戦争映画は、戦意高揚映画と反戦映画に分類できるが、両者の違いはどこにあるのだろうか。私は、単純に、見終わった後にスカッとする作品が前者、見終わっても何かが重苦しく残り、あんな戦争なら俺は行くのは御免だな、と思わせる作品は後者だと考えている。戦争をリアルに描くと、残酷な描写が多くなり、後者に近づいてくる。

その中間の作品として、戦争そのものは認めなくとも、それに参加した人々(しばしば、観客の父や祖父と同じ世代の人々であったりする)は基本的に善良な普通の人々であり、時として勇敢でもあった、とする作品もある。この第三の作品に流れている気分は、第二次大戦も遠くなり、冷戦も過ぎて、もはや血を流すことに疲れ始めたアメリカ人の気分でもある。「プライベート・ライアン」の冒頭と末尾にはためく色褪せた星条旗(色鮮やかな星条旗であってはならない)がそれを象徴している。

多くの人が指摘するように、この映画の白眉は、酸鼻を極めるノルマンディー・オマハビーチの上陸戦である。上陸艇の中で恐怖と船酔いに苦しみ、やっと扉が開いて上陸かと思えば身動きもできない内に狙い撃ちされ、あわてて海に飛び込めば装備が重すぎて溺死、やっと浜辺にたどり着いても銃砲弾に手足を吹き飛ばされる。腕を切断された兵士は、落ちた腕を抱えてうろうろ歩き、ヘルメットで銃弾が止まって、幸運に感謝した兵士は、次の瞬間に頭の同じところを撃ち抜かれる。やっとトーチカを制圧した兵士たちは、降伏したドイツ兵士を容赦なく射殺する。

このような描写を見せられたら、若者十人の内九人までは、戦争など御免だと思うだろう。たとえ、その後に、勇敢で比較的ヒューマンな兵士たちの行動が描かれているとしても。

なぜ、今、このような作品がつくられた(つくられることを許された)のか。もはやアメリカ人は、自分自身のため以外には血を流さないことを決意したからではないか。もしまた、血を流さなければならない事態が起こりうるとしたら、これほど恐ろしげな戦争描写は許されないだろう。事実でも、知らない方がいいことはある。

自由の木は、愛国者の血で育つという。しかし、今、アメリカ人は、父祖たちのように戦い血を流すことはできないと悟った。人権問題で交渉や制裁をすることはあっても、また、テロリストにミサイルを撃ち込むことはあっても、血は流さない。もう、父祖たちのように、生きて死ぬことはできない。そうするには、戦後五十年の間に、自分たちはあまりにも知りすぎてしまった。

だから、今、勇敢だった父祖たちを鎮魂し、自分たちが同じようになれないことを詫びるために、整然と立つ十字架の列を暴いて、彼らの地獄を追体験させ、そして再び彼らの魂をを十字架の列に戻したのである。もはやこれほど多くの十字架の列が立つことがあってはならない。映画の最後に、無事帰還を果たしたライアンが戦死者の墓の前にたたずむ。後方には若い家族たちもいるが、カメラの焦点はライアンのみに合っている。若い家族と戦死者たちとの間に通うものは、もはやない。生きることは考えられても、何かのために死ぬことは考えられないからである。老いたライアンもその点では同じかもしれない。彼らの上でひるがえるのは、色褪せた星条旗がふさわしい。

高野 朝光

サリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」

ビデオでシネマ

1.サリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」

この作品、劇場公開の宣伝文句に「官能」とか「エロス」とかいった言葉が飛び交っていたので、期待してでかけた男性がごまんといたそうな。ウソウソ、冗談。でも実は私はこのシゲキ的な宣伝文句にゲンナリして、映画館にいかなかったのだ。

じゃあ何ゆえビデオを見たのか。それゃもうあなた、監督がサリー・ポッターだからですワ。恥ずかしながらイギリスのこの女流監督についてはまったく知識がないのだが、何年か前に彼女の「オルランド」を見て以来、何やら気にかかる存在。しかも今回の作品ではご本人が主役を演じているとなれば、一見の価値あり。そこでビデオレンタルショップで見つけるや、さっそく借りてきたのでありました。

前振り長くてゴメンなさい。さてさて、妙に後を引く作品だった。モノクロ(一部カラー)で映像地味だしメッセージ性も強くないので、見終わって感動の嵐は起こらない。これがイチ押し、超オススメってわけでもない。けれどなぜか心に残る。残ってたゆたう。不思議な作品だ。

主人公は仕事に行き詰まった中年監督のサリー・ポッター自身。ある日彼女はタンゴのレッスンを思い立ち、先生の若き踊り手パブロとレッスンを重ねるうちに二人の気持ちは接近する。しかしパブロが引いてしまう。ダンスパートナーとしての彼女を大切にしたい、つまりは公私混同して関係をこじらせたくないってのが彼の言い分だ。ストーリーの3分の2ぐらいまでこの調子で、その上ポッターが形勢不利なので、表面的には「中年女が若い男に血迷ってもしょせんは無理なのね」という図式。ここまで見た限りだと、ありふれた恋愛映画にすぎず、ポッター女史ってこんなつまらない作品つくる人だったのかとガッカリせずにはいられない。

ところが残りの3分の1で状況が一転する。ポッターが彼を使って映画を撮る話になるが、今度はパブロの方が監督の目でしか自分を見てくれないとすねるのに対し、ポッターはあっさり言ってのけるのだ、これが私の愛の表現の仕方なのよと。テリトリーが移ったとたんに立場も逆転しちゃったわけである。

と書くと何だかオバサンの意趣返し話のよう。でも二つのエピソードから浮かび上がってくるのはむしろパブロとポッターの類似性だし、全体から見えてくるのはポッターという女性の生き方、そして映画に対する彼女の思いだ。

パブロもポーターも目の前の愛情や官能に溺れるよりは一歩引いてそれを自己表現に生かすタイプ。わざとそうするのではなく、そうせざるをえない。いわゆる芸術家の宿命か。ポッターは言ってしまえば愛より仕事をとったキャリアガールの姐御ってとこだが、そういう人たちを主人公にした小説や映画にありがちの「愛を捨て辛さに耐えて、でも私はこの道を選んだ」的な力みや諦めはなく、人生をポジティブに受け止め、楽しんでさえいる。潔い生き方ってのかな。しかもサリー・ポッター自身をあえて主人公にしたことで、かなり真実味が出ている。手法も人物像もおもしろいと思った(ただしラストシーンは、ポジティブにとるかネガティブにとるか解釈の相違が出るはず。ずるい言い訳だけど、私だって落ち込んでいるときに見たらこのラスト、ネガティブに取るかもしれないと思ったんですよね)。

ちなみに肯定的なものの見方は前作の「オルランド」にも共通していて、こちらはバージニア・ウルフ原作の不死の人オルランドの話だが、オルランドは時代によっては男にもなり女にもなりと変幻自在で、実に軽やかに各時代に対応する人物として描かれている。ウルフの原作を読んでないので偉そうなことは言えないけど、同じく不死の人を扱ったボーヴォワールの『人はすべて死す』に比べるとはるかに肯定的。ボーヴォワールが個にこだわるとすればポッターの視点はマクロで、このマクロさ、おおらかさ、そしてポジティブな捕らえ方がポッター映画の特徴のようだ。

最初の3分の2が冗長でこれについては不満が残る。行き詰っている仕事とそれに関わるシーンがやや観念的でこれも邪魔っけ。でも全体の映像は絵になる構図で、しかし無理に映像美を追求していないところがいい。「雨に唄えば」風、「フラッシュダンス」風のダンスシーンもあって、とくに前者は短いシーンだけど楽しめた。

quittan

恋人たちのポートレート

このコーナーは見損なった作品、もう映画館では見られそうもない作品、あるいは未公開の作品に出会えるビデオのご紹介がてらの勝手な感想をお送りします。2「恋人たちのポートレート」★フツーでした。「ミナ」のマルティーヌ・デュゴワゾン監督の作品と聞けば見てみたいと思う人もいるはず。何を隠そう私もその一人で、ロードショーを見逃したためビデオが出るのを手ぐすね待っていたんですね。で、見た感想は、フランス映画にしちゃあんまりフツーで、ちとガッカリ。もっとも、口当たりいいし分かりやすいから、パリの空気が恋しいとき見るには手ごろかな。おハナシは、女3人男4人のグループに女が一人飛び込んできて、恋愛がちょっくら入り組んで友情もあって、という日本のトレンディドラマじゃ使い古した筋立て。メインキャラクターのアダを演ずるヘレナ・ボナム・カーターの職業がファッション関係、友人のマリー・トランティニャンと男たちが映画関係って設定も、それぞれの業界をしっかり描いてくれていないから魅力ない。まあ、“グループ交際”は万国共通、マンネリこそが大前提ってことか。でも、もしエリック・ロメールが撮ったらもっと皮肉っぽくておもしろくなっただろうにと、途中でついつい余計なこと考えたりしたものだ(その代わり、登場する男はみんなお喋りで女々しいんだろうね)。

ただし、よい部分もありました。女性監督だけあって女友達の関係がわりにうまく描けているのだ。たとえばやり手で姐御風のトランティニャン、仕事熱心でしっかり者のカーター、うだつが上がらず恋人もいずどこか抜けてるエルザ・ジルバースタインという3人の女友達のつるみ方。ほら、3人のうち2人がしっかりしている場合、何にかにつけて2人が額を寄せ合ってヒソヒソやり、ボケ役は「あんたは黙ってなさい」って言われるケース、よくあるでしょ。といって2人は彼女を嫌っているのではなく、むしろ憎めない妹扱いしている、みたいな。そんな女友達の関係性の勘どころと呼吸をうまく捕まえている。前作の「ミナ」は、若い時期の女友達の関係にありがちな打算、駆け引き、自己中心、意地の悪さに目を向けた点がおもしろかったが、この作品も女友達物として見た方がおもしろいかもしれない。

そう思えるのは女性の方が性格付けがよくできているせいもある。この映画、男はパターンだし、ほんと冴えない。俳優も男どもより女優陣の方が健闘してます。意外や意外、ヘレナ・ボーム・カーターがいい。これまでの彼女は癇が強かったりキツい役が多く、ドラマの主人公にはよくてもお友達にはしたくないタイプだったが、今回は身近にいそうな普通の女性を好演。圧縮器にかけたような容貌と小柄な体躯のせいで、イギリス、アメリカ映画じゃ特異な雰囲気になっちゃう彼女も、やはり小柄でアクの強いフランス人女優の間だと普通に見える点が良く作用しているんだろうか。とにかく彼女の才能に対する認識を新たにしました。マリー・トランティニャンも他の映画じゃとんでもないエキセントリックぶりをご披露くださっているが、この作品では愛敬たっぷり。男っぽくてツッパラかってるくせに、自分の愛人とカーターが夜中になっても戻らないと気を揉んでジタバタ。これが茶目っ気あって笑わせてくれる。この人、コメディやったら絶対いい。

ところで、マリー・トランテイニアン扮するキャリアガールはイヴァン・アタル演ずる映画監督と長年同棲して赤ちゃんもいるが、二人は結婚も入籍もしていない。フランスでは未婚で子供を産みその父親と独立した関係を保ちつつ自分のキャリアを続けていく生き方が、多くはないにしても女性のライフスタイルのひとつとして定着している。だから女友達が何人か集まる際にこういうタイプが1人ぐらい混じるのは設定としてごく自然なのだろう。

さて、実はここが日本のトレンディドラマと違う点なんですね。日本にも彼女みたいな女性はいるもののまだ少数派。一般に十分認知されていない。ゆえに日本のドラマでは、不倫中のOLや離婚した女性は普通に登場するが未婚の母は典型的キャラクターとしては出てこない。この違い、日仏のお国柄や社会的背景の違いによる現象ではある。けれどむしろ日仏の女性の意識の違い、人生観や結婚観の違いの現われじゃないのかな。私はこの作品見ていてつくづくそう思った。ついでながら、原題のPortrait Chinoisって決まり文句? ご存知の方があったらぜひ教えてください。quittan