「ヒューゴ・プール(96米)」

6「ヒューゴ・プール(96米)」東映ビデオ

オープニングの良さに惹かれてついご紹介

映画には、ほんのワンシーンとか、たった一言のセリフとか、そんな些細な何かがとても気に入ったために好きになる作品もあるんじゃないだろうか。こんな言い訳めいた前振りをしたのも、察しのよい方ならもうお分かりですね。そう、今日ご紹介する『ヒューゴ・プール』がその類なんでありマス。

この映画、悪くないけど出来がよいとはいいがたい。でも、オープニングがとびきりいい。青みがかった夜明けのロスアンゼルスの静かな町並みに、そっと入り込んでくるセロニアス・モンクのジャズ・ピアノ。朝が始まりつつあるとはいえまだ家々はブルーのもやの中でひっそり眠っている。そんな風景にモンクのちょっと外し加減のソロがほんとよく似合っているのだ。

選曲がうまい。うますぎる。もしやこの監督、すごい才能の持ち主なのではないか。などど考えていると、ゆっくりテロップが出はじめる。このフォントがジャズエイジの時代のポスターなぞを彷彿させるデザインでなかなかよい。むむ、もしやどころかほんとにデキる監督だったりして……。しかしこれは早とちりだった。残念ながら本編には、このオープニングほど才気はひらめかなかったみたいだ。

ヒューゴ・プールとはアレッサ・ミラノ扮するヒューゴが一人で経営するプール清掃会社。ある朝ラジオから、ロス市は水不足のためプールへの給水には罰金を科すとのお知らせが流れると、途端にプール掃除の依頼が殺到する。

そこで糖尿病のヒューゴは起き抜けにインシュリン注射を済ませ、さっそく仕事に取り掛かる。まずヤク中の父親を訪ねて叩き起こし、プールの水を盗まれてしまった依頼主のために給水トラックでコロラド川へ水を「仕入れ」に行くよう指示。次は競馬狂で借金山ほどの母親の元へ行き、借金の肩代わりをしてやる条件で手伝いを承諾させる。

こうして父は川へ水汲みに、母子はお仕事しに依頼主のプールへ。それにしてもプールの水を盗まれるとか1日で回り切れないほど依頼を頼まれるなんて話が成り立つのは、自家用プールの多いロスならでは。日本じゃ考えられないですな。

そんな一軒でヒューゴはALS(筋萎縮性側索硬化症)の青年と出会う。キーボードを打つと音声の出るノートパソコンでユーモアたっぷりの会話ができる彼は、ヒューゴ母子と親しくなり、二人の乗るピックアップの荷台に車椅子ごと同乗。プール清掃巡りや競馬観戦まで体験する。楽しい1日を分かち合ったヒューゴと青年は翌日結ばれる。が、青年は短い命を閉じる――。

大まかにはこんなストーリーだが、起承転結ありのドラマティックなハリウッド的映画ではない。父親と自閉症気味のヒッチハイカー(ショーン・ペン)との心暖まる副ストーリーの他は、ささやかなエピソードの積み重ね。それも水彩画のようにさらりと描かれる。映画というより1人称で語るミニマル系アメリカ現代小説の趣だ。

しかし哀しいかな、監督の才能不足で水彩画が滲んでしまった。弱い者が互いに癒し癒されていく、というストーリーは有りがちとはいえいい素材。これを爽やかに描きたくて水彩画的な映像を選んだ気持ちもよく分かる。ところがその手法がうまく生かされていない。心象風景の描き方がヘタ、というか映像で登場人物の内面を表現するまでには至っていないのだ。

そのせいで、薄味でさえあれば上品だと勘違いした懐石料理を食べさせられている気分になる。つまりダシが効いていないってワケ。監督はオープニングに力を入れすぎて後が続かなかったのかしらん?(まあ、作業手順を考えればオープニングの制作は本編の編集より後でしょうけど)

とは言え登場人物たちの醸しだす優しさには不思議な魅力がある。糖尿病のヒューゴ、ヤク中の父親、競馬狂の母親、筋萎縮の青年、自閉症のヒッチハイカー、そして頭のネジがゆるんでいるような依頼主たち――皆、心身のどちらかまたは両方に弱さやハンディキャップをもっている。でも優しさももっている。

そういう、弱いけれども心根の優しい人たちがある日偶然に出会って、ほんのひととき心触れ合い、お互いに癒される。それがとても自然で普通だ。なぜか。彼らは自分が弱いゆえに相手の弱さも理解できるから。相手の痛みを感じることができるからだ。

主人公の糖尿病という設定もおもしろい。ALS の青年と心を通わせやすいキャラクターとして使ったのだろうけど、登場人物をステレオタイプではなく造形しているのには好感が持てる。この映画みたいに、いろいろな病気持ちや怪我人がごく普通のキャラクターとして映画にどんどん登場するようになれば、弱者に対する人々の認識も多少は変るんじゃないだろうか。

監督がもうちょっとがんばってくれたら佳作になりえたのに、かえすがえすももったいない作品。ちなみに監督は、この作品にラリパッパな依頼主役で登場するロバート・ダウニー・Jr.の父君ロバート・ダウニーで、若くして ALS で亡くなった妻へのオマージュ的作品であるらしい。

quittan

サリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」

ビデオでシネマ

1.サリー・ポッターの「タンゴ・レッスン」

この作品、劇場公開の宣伝文句に「官能」とか「エロス」とかいった言葉が飛び交っていたので、期待してでかけた男性がごまんといたそうな。ウソウソ、冗談。でも実は私はこのシゲキ的な宣伝文句にゲンナリして、映画館にいかなかったのだ。

じゃあ何ゆえビデオを見たのか。それゃもうあなた、監督がサリー・ポッターだからですワ。恥ずかしながらイギリスのこの女流監督についてはまったく知識がないのだが、何年か前に彼女の「オルランド」を見て以来、何やら気にかかる存在。しかも今回の作品ではご本人が主役を演じているとなれば、一見の価値あり。そこでビデオレンタルショップで見つけるや、さっそく借りてきたのでありました。

前振り長くてゴメンなさい。さてさて、妙に後を引く作品だった。モノクロ(一部カラー)で映像地味だしメッセージ性も強くないので、見終わって感動の嵐は起こらない。これがイチ押し、超オススメってわけでもない。けれどなぜか心に残る。残ってたゆたう。不思議な作品だ。

主人公は仕事に行き詰まった中年監督のサリー・ポッター自身。ある日彼女はタンゴのレッスンを思い立ち、先生の若き踊り手パブロとレッスンを重ねるうちに二人の気持ちは接近する。しかしパブロが引いてしまう。ダンスパートナーとしての彼女を大切にしたい、つまりは公私混同して関係をこじらせたくないってのが彼の言い分だ。ストーリーの3分の2ぐらいまでこの調子で、その上ポッターが形勢不利なので、表面的には「中年女が若い男に血迷ってもしょせんは無理なのね」という図式。ここまで見た限りだと、ありふれた恋愛映画にすぎず、ポッター女史ってこんなつまらない作品つくる人だったのかとガッカリせずにはいられない。

ところが残りの3分の1で状況が一転する。ポッターが彼を使って映画を撮る話になるが、今度はパブロの方が監督の目でしか自分を見てくれないとすねるのに対し、ポッターはあっさり言ってのけるのだ、これが私の愛の表現の仕方なのよと。テリトリーが移ったとたんに立場も逆転しちゃったわけである。

と書くと何だかオバサンの意趣返し話のよう。でも二つのエピソードから浮かび上がってくるのはむしろパブロとポッターの類似性だし、全体から見えてくるのはポッターという女性の生き方、そして映画に対する彼女の思いだ。

パブロもポーターも目の前の愛情や官能に溺れるよりは一歩引いてそれを自己表現に生かすタイプ。わざとそうするのではなく、そうせざるをえない。いわゆる芸術家の宿命か。ポッターは言ってしまえば愛より仕事をとったキャリアガールの姐御ってとこだが、そういう人たちを主人公にした小説や映画にありがちの「愛を捨て辛さに耐えて、でも私はこの道を選んだ」的な力みや諦めはなく、人生をポジティブに受け止め、楽しんでさえいる。潔い生き方ってのかな。しかもサリー・ポッター自身をあえて主人公にしたことで、かなり真実味が出ている。手法も人物像もおもしろいと思った(ただしラストシーンは、ポジティブにとるかネガティブにとるか解釈の相違が出るはず。ずるい言い訳だけど、私だって落ち込んでいるときに見たらこのラスト、ネガティブに取るかもしれないと思ったんですよね)。

ちなみに肯定的なものの見方は前作の「オルランド」にも共通していて、こちらはバージニア・ウルフ原作の不死の人オルランドの話だが、オルランドは時代によっては男にもなり女にもなりと変幻自在で、実に軽やかに各時代に対応する人物として描かれている。ウルフの原作を読んでないので偉そうなことは言えないけど、同じく不死の人を扱ったボーヴォワールの『人はすべて死す』に比べるとはるかに肯定的。ボーヴォワールが個にこだわるとすればポッターの視点はマクロで、このマクロさ、おおらかさ、そしてポジティブな捕らえ方がポッター映画の特徴のようだ。

最初の3分の2が冗長でこれについては不満が残る。行き詰っている仕事とそれに関わるシーンがやや観念的でこれも邪魔っけ。でも全体の映像は絵になる構図で、しかし無理に映像美を追求していないところがいい。「雨に唄えば」風、「フラッシュダンス」風のダンスシーンもあって、とくに前者は短いシーンだけど楽しめた。

quittan

恋人たちのポートレート

このコーナーは見損なった作品、もう映画館では見られそうもない作品、あるいは未公開の作品に出会えるビデオのご紹介がてらの勝手な感想をお送りします。2「恋人たちのポートレート」★フツーでした。「ミナ」のマルティーヌ・デュゴワゾン監督の作品と聞けば見てみたいと思う人もいるはず。何を隠そう私もその一人で、ロードショーを見逃したためビデオが出るのを手ぐすね待っていたんですね。で、見た感想は、フランス映画にしちゃあんまりフツーで、ちとガッカリ。もっとも、口当たりいいし分かりやすいから、パリの空気が恋しいとき見るには手ごろかな。おハナシは、女3人男4人のグループに女が一人飛び込んできて、恋愛がちょっくら入り組んで友情もあって、という日本のトレンディドラマじゃ使い古した筋立て。メインキャラクターのアダを演ずるヘレナ・ボナム・カーターの職業がファッション関係、友人のマリー・トランティニャンと男たちが映画関係って設定も、それぞれの業界をしっかり描いてくれていないから魅力ない。まあ、“グループ交際”は万国共通、マンネリこそが大前提ってことか。でも、もしエリック・ロメールが撮ったらもっと皮肉っぽくておもしろくなっただろうにと、途中でついつい余計なこと考えたりしたものだ(その代わり、登場する男はみんなお喋りで女々しいんだろうね)。

ただし、よい部分もありました。女性監督だけあって女友達の関係がわりにうまく描けているのだ。たとえばやり手で姐御風のトランティニャン、仕事熱心でしっかり者のカーター、うだつが上がらず恋人もいずどこか抜けてるエルザ・ジルバースタインという3人の女友達のつるみ方。ほら、3人のうち2人がしっかりしている場合、何にかにつけて2人が額を寄せ合ってヒソヒソやり、ボケ役は「あんたは黙ってなさい」って言われるケース、よくあるでしょ。といって2人は彼女を嫌っているのではなく、むしろ憎めない妹扱いしている、みたいな。そんな女友達の関係性の勘どころと呼吸をうまく捕まえている。前作の「ミナ」は、若い時期の女友達の関係にありがちな打算、駆け引き、自己中心、意地の悪さに目を向けた点がおもしろかったが、この作品も女友達物として見た方がおもしろいかもしれない。

そう思えるのは女性の方が性格付けがよくできているせいもある。この映画、男はパターンだし、ほんと冴えない。俳優も男どもより女優陣の方が健闘してます。意外や意外、ヘレナ・ボーム・カーターがいい。これまでの彼女は癇が強かったりキツい役が多く、ドラマの主人公にはよくてもお友達にはしたくないタイプだったが、今回は身近にいそうな普通の女性を好演。圧縮器にかけたような容貌と小柄な体躯のせいで、イギリス、アメリカ映画じゃ特異な雰囲気になっちゃう彼女も、やはり小柄でアクの強いフランス人女優の間だと普通に見える点が良く作用しているんだろうか。とにかく彼女の才能に対する認識を新たにしました。マリー・トランティニャンも他の映画じゃとんでもないエキセントリックぶりをご披露くださっているが、この作品では愛敬たっぷり。男っぽくてツッパラかってるくせに、自分の愛人とカーターが夜中になっても戻らないと気を揉んでジタバタ。これが茶目っ気あって笑わせてくれる。この人、コメディやったら絶対いい。

ところで、マリー・トランテイニアン扮するキャリアガールはイヴァン・アタル演ずる映画監督と長年同棲して赤ちゃんもいるが、二人は結婚も入籍もしていない。フランスでは未婚で子供を産みその父親と独立した関係を保ちつつ自分のキャリアを続けていく生き方が、多くはないにしても女性のライフスタイルのひとつとして定着している。だから女友達が何人か集まる際にこういうタイプが1人ぐらい混じるのは設定としてごく自然なのだろう。

さて、実はここが日本のトレンディドラマと違う点なんですね。日本にも彼女みたいな女性はいるもののまだ少数派。一般に十分認知されていない。ゆえに日本のドラマでは、不倫中のOLや離婚した女性は普通に登場するが未婚の母は典型的キャラクターとしては出てこない。この違い、日仏のお国柄や社会的背景の違いによる現象ではある。けれどむしろ日仏の女性の意識の違い、人生観や結婚観の違いの現われじゃないのかな。私はこの作品見ていてつくづくそう思った。ついでながら、原題のPortrait Chinoisって決まり文句? ご存知の方があったらぜひ教えてください。quittan

アキ・カウリスマキの「浮き雲」

プレーンだからおもしろい

花田清輝の作品集を読んでいたら、坂口安吾の「あきらめアネゴ」と称する小文を紹介するくだりが出てきて、この「あきらめアネゴ」というネーミングを私はけっこう気に入ってしまったのでした。銀座並木座の最終上映週に見た「晩菊」の、細川ちか子扮する役柄をふと思い出し、言い得て妙だと思ったのです(ちなみに清輝の小文は「日本人の感情表現」。興味のある方はご一読を)。

そのネーミングを真似るなら、「浮き雲」は「諦めずアネゴ」、いや「懲りないアネゴ」と「懲りないアニキ」の物語ってことになりますか。路線バス運転手の夫とレストラン給仕長の妻が新たなローンを抱えたところで共に職を失ってしまい、悪戦苦闘して職を得るまでのお話。と書けば汗と涙の感動物っぽいが、どっちとも無縁。というのもイロナとラウリのこの夫婦の苦闘ぶり、どうにもおマヌケなのである。ダンナがトラック運転手の仕事を見つけてきて喜んだのもつかの間、目の検査で落とされた上に運転免許まで取り上げられちゃうし、奥さんは怪しげな職業斡旋所で高い斡旋料をふんだくられたあげく、悪徳レストランでただ働きするハメに。てな具合にせっせと就職活動するもののことごとく失敗の憂き目に遭う。まぁ、この手の苦労は今の日本にもないとはいえない。が、二人の場合はさらに自家用車を売って作ったなけ無しの虎の巻を、もっと増やそうとマジでカジノに乗り込んで、あっけなくスッてしまうのだ。

せっぱ詰った大事なときにこの思慮分別の無さ。しかもどちらかといえば滑稽味をもって描かれているので、ときにこいつらアホかと呆れもする。しかしよくよく考えてみれば、人間のしていることなんて案外こんなものではないだろうか。どんな状況下でも理性的且つ適切な判断を下せる人なんてそうはいないし(たとえば最近信者が訴訟を起こしたことで巷を賑わしている某女優と女性総師の問題にしても、信者には切実な理由があったのだろうけど、客観的に見れば1億円ものお金をつぎ込むのはやっぱり常軌を逸しているとしか思えない)、ご本人が悲劇と感じているほどには物事は悲劇的に見えないものなのだから。

カウリスマキという監督は、本人にとっては切実で悲劇的、だけど他人から見れば滑稽、といった設定を作るのがうまい。「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」はサイコーにかっこいいと自負するロックバンドがアメリカに行ってズレを体験する話。「コンタクト・キラー」は自分を殺してほしいと殺し屋を頼んだ主人公が急に死ぬのがいやになり、その殺し屋から逃げ回る話。「愛しのタチアナ」なんて、冴えない男たちが冴えない女たちをナンパして、しかしアメリカ映画の主人公のようなかっこいいデートとは似ても似つかぬぎこちなさを丁寧に描いてる。

ただしどの作品も主人公を貶めたり嘲笑していはいない。むしろ他者の眼にはバカバカしく見えても本人には重要な意味をもつものがあるのだということ。そしてかっこよくなくても滑稽でもいいじゃないか、というカウリスマキの人生観とそういう生き方をしている人々への共感が一環して流れている(うがった見方をすれば、ヨーロッパの田舎と言われ国際経済からはやや遅れをとりながら独自の生き方を摸索している北欧の、こういう生き方もいいじゃないかという肯定論ともとれなくもないが)。それに彼の作品の主人公も自分を悲劇のヒーローやヒロインに仕立ててメソメソ自己憐憫に浸ってはいない。「浮き雲」にしても、なんの取り柄もない夫婦が、甘くない現実から決して逃避したりせず、愚痴も言わなければ誰に責任転嫁するでもなく、闇雲とはいえ自分たちの責任で前向きに生きていく。この「凝りなさ」がよいではないか。

それにしても、相変わらずセリフの少ないこと。「マッチ工場の少女」の極端な無口は例外として、今回の二人も小津作品の笠智衆よりセリフが少ないのでは?

映像もとてもシンプルだ。うるさいカットバックもないし、奇をてらったつなぎ方もしていない。主人公もごくごく平凡。それでいて結構最後まで見せてしまう。カウリスマキっていい腕してるとつくづく思ったのでした(余談ながら、私は彼の「ラヴィ・ド・ボエーム」も好きです)。

quittan

「ダライ・ラマ」The Dalai Lam

宗教家はエラいのか?

今回はシネマといってもドキュメント。「阿片戦争」がレンタル中だったので、じゃあ同じ中国系でと手に取ったのがこのビデオだ。制作が97年とあるのは、ハリウッド映画「セブン・イヤー・イン・チベット」を意識して作られたってことだろうか。それはともかくダライ・ラマ14世の半生に焦点を当てつつ、チベットの宗教社会を描いたなかなかおもしろい作品である。

チベット仏教の最高者ダライ・ラマとはキリスト教でいえばローマ法王のようなものか。ただしダライ・ラマの場合、ご存知のように生まれ変わりによって継承されるのがルール。ダライ・ラマが亡くなれば、どこかでその生まれ変わりの赤ん坊が誕生すると信じ、生まれ変わりを探し出して位につけるのである。そのために高僧たちはチベットと呼ばれる狭い地域だけでなく、広くあちこちを何年もかけて探し回る。

あまりに非現実的なシステムだが、むしろ政治的な理由があってのことだとこのビデオは指摘する。共産中国が入る前のチベットは前近代的な宗教政治社会であり、政治を司るのは僧だった。しかし僧たちの間には当然のことながら派閥ができる。放っておけば力のある派閥に都合のよい者が選ばれたり、一部の寺院や僧たちだけが得する選定が行われてしまう。そこで、そうした不公平をなくすため「生まれ変わり」が最高者選定の基準となったらしいのである。ま、生活の知恵というやつでしょうな。

ほんとかどうか知らないが、ダライ・ラマの生まれ変わりと言われる子供は前世の記憶をもっており、ダライ・ラマ時代に使ったものなどを覚えているとか。しかし選定のためのテストは厳しい。偽物を混ぜたりして徹底的に真偽を追及する。これにパスしたのが現在のダライ・ラマ14世だ。彼はわずか5歳にして最高者の地位についた。ただし、18歳までは実権を握ることが許されないため周囲の高僧たちが摂政を行っていた。あれ?この手の言葉、日本史の授業にも出てきたと思いません?ほら、坊さんたちが権力を握って政治に嘴突っ込み始めた平安時代辺りに。

そう、社会構造も平安時代によく似てるのだ。チベットは貴族社会で少数の貴族が膨大な荘園をもち、農奴をこき使っていた。僧たちも貴族といわば結託していた。ダライ・ラマ14世だってごく平凡な出身なのにこの地位に選ばれた途端、両親は広い荘園をもらって贅沢三昧。ご本人も王侯のごとき生活で、お抱えの料理人は山ほどいるし、彼が飲むヨーグルト一杯のために何十頭という山羊が飼われていたそうな。1日一滴のヨーグルトさえ農奴に与えられなかった時代にである。

実はパッケージの解説に「中国から見たダライ・ラマ」というような断り書きが入っていて、意味ありげだったのでどういうこっちゃと思っていたのだが、見てなるほどと納得した。ダライ・ラマを悪く描いているわけではないが、彼は貧しい農民を搾取する特権階級で荘園主であり、農奴は文字どおり奴隷のようにこき使われ、ボロを着て食べ物もロクに与えられない。そんな彼らに土地を開放し、幸せな暮らしを与えたのは人民解放軍だというわけ。まさに中国サイドから見たチベットであり、フィルム構成も多分に共産主義プロパガンダ的だ。

しかし、そうした偏りはあるにせよ、今、世界的に高徳の師と仰がれているダライ・ラマがいったいいかなる者なのか、あるいはダライ・ラマとはいかなるシステムで成立しているのかを知るための資料としては興味深い。

私たちは宗教者というとどうしても俗を脱した徳の高い人間を想像しがち。政治から離れ贅沢などというものからも離れた清く正しい人だと思ってしまうものだ。しかしそもそも宗教とは何なのだろう。太古の昔を考えてみれば、宗教には祭祀を司る役目が強く、祭祀、祭はイコール政(まつりごと)でもあった。それに長い歴史を振り返れば、宗教者も所詮ただの人間であることは明らか。むしろ宗教者に過大な期待をする方がおかしいのかもしれない。

この作品は、貴族政治の影響を受けていた若き日のダライ・ラマ14世しか描いていない。それに恥ずかしながら14世がそれ以後どんな生活をしてきたのか、どんな「徳を積んできた」のか私は知らないので、これ1本で彼をどうこう言うことはできない。ただ、世界平和とか人種の平等といったテーマのときには必ず登場するダライ・ラマもかつて違う生き方をしていた時期があったのだということ。

それにしても共産主義国のプロパガンダ映画って、どうしてこう自国を誇大PRしたがるんだろう。

quittan

「てなもんや商社」

5「てなもんや商社」 監督:本木克英/出演:小林聡美、渡辺謙 他

堅すぎて、ちとザンネン

邦画というヤツがどうにも苦手で、ここ数年、古いもの以外はほとんど見ていない。が、タイトルが何やらありそな「てなもんや商社」、ロケ先が中国、そして主演がアイドルタレントではなく小林聡美とくれば、それなりに笑わしてくれるんじゃなかろーか――と期待を胸に見たのだが、手堅すぎてガッカリでした。

適当なところに就職してグルメ三昧、遊び三昧、2~3年したら結婚退社、というお気楽な夢を描いて就職活動する主人公の小林聡美が、運良く、というか運悪く引っかかったのが、中国に洋服や縫製製品を発注し、出来上がった製品を日本国内の企業に売る小さな貿易商社。

ところが発注先が中国なもんだから(あ、これって偏見ですね)、納期は遅れる、注文どおりの品物ができない、材料が届いてないとウソをついて過分に物を要求する。これらの手配やケアやらで毎日てんやわんやの忙しさ。

その上、輸入した商品を社員みずからあちこちへ売り込みに行かなきゃならないし、社員ときたら直属上司の中国人、王(渡辺謙)はじめ、ちょっと変った人たちばかりで、上司は叱ったり責めたりしない代わりにどんどん仕事を回してくる。かくして聡美嬢は入社初日からハードな日々を送ることになるのである。

やがて、文句もタレずオシゴトする聡美嬢は王のお供で中国入り。日本人のお得意さんを連れてさっさと引き上げてしまった王に代わって検品を担当する。が、中国式接待で酔いつぶされたり、ど田舎まで検品しに行くはめになったり、さらにはそこでクルマが溝にはまり込んで身動きできなくなったりと、さまざまなアクシデントに遭遇するのである。

しかし、それも過ぎてしまえば楽しい思い出。今では会社で元気に働く聡美譲――。

というのが粗筋だが、はっきり言って冴えない映画だ。まず、何が来ても「そんなもんかぁ」とクリアしてしまう主人公の性格。小林聡美のひょうひょうとしたキャラクターのお陰でどうにかつじつま合ってるものの、主人公が本気でグルメ三昧、お遊び三昧指向のOLだとしたら、この会社、この仕事に「そんなもんかぁ」で済むはずない。心のうちに怒り、苛立ち、葛藤が渦巻いてしかるべき。いや、お気楽指向のOLじゃなくたって、普通はもう少し葛藤するんじゃないだろか。

ところがこの主人公、まるでのれんに腕押しなんですね。そりゃあ、世の中には彼女みたいに順応性の高いOLさんもいることだろう。それに感情の起伏の激しくない人がドラマの主人公になったってかまわない。が、この映画みたいに流されっぱなしだとキャラクターとしての魅力が出てこない。ストーリーの都合に合わせて動いているだけって感じだ。

もちろん、「てなもんや商社」のタイトル通り、主役は会社、という見方もできよう。「できないことをできるようにしていくのが私たちの仕事。最初からできると分かっていることをやってもおもしろくありません」と厄介事をひょうひょうと片づけていく渡辺謙や、一流商社にいたのに活気の無さに辟易して転職した柴俊夫など、集まるのは日本の会社社会の規格からはちょっとズレているが個性的で仕事に夢を持っている人たち。そして会社はといえば秩序もルールもなく一見いい加減だが、自分次第では夢が実現できる場所でもある。ね、世の中にはこんな会社もあるんだよ、みたいな。

しかし、そうだとすれば会社内のエピソードがあまりに弱い。社内のシークエンスはパターンすぎるし、個性的であるはずの社員たちも、その個性は型通り。この映画ならではの個々の魅力作りにまで至っていない。要するにどこをとっても上っ面だけしか描かれていないってこと。いかにもおもしろそうなキャラクターをあちこちから駆り集め、おもしろそうなエピソードをつなぎあわせただけにすぎないまのである。

それは中国という国に対しても同じ。観客の知識と想像力に頼りすぎていて、なぜギャップが生じるのか、といった点に全く触れていない。ことさら説明せず異国のひとつとしてサラリと描きたかったのかもしれないし、実際、こんな風にサラリと流して効果を上げる監督もいる。だが、この映画に関してはそれがうまくいっていない。だいたい、せっかく中国くんだりまで行って、ありきたりの映像で終わりってのがあまりに情けない。一体全体この監督、中国について感動したり表現したいと思ったものがなかったんだろうか。

ストーリーに破綻があるわけではなく、見苦しい映像があるわけでもない。達者な役者が揃っているから、演技のぎこちなさにウンザリさせられることもない。スーッと見てしまえば楽しめない映画ではない。

でも、正直なところ、この監督、何が撮りたかったんだろうねぇ。映像が平凡、言いたいことも中途半端。オシゴト来たので引き受けました、映画の手法は一応勉強してますから、常道に沿って手堅くクリアしたと思いますよ、ってな風で、味もおもしろみもないんだなぁ。

それに淡白系を狙ったのだとしたら大きな勘違い。なぜなら一見淡々とした映画とは、実は映像が濃密で映像自体が饒舌。景色ひとつにも監督のこだわりがしつこいほどこもっているものなのだ。しかしザンネンながらこの作品は映像も淡白で無口。それも、言いたいことを抑えているというよりは、何も言ってない。

私は日本人の若手監督にありがちな一人よがりの作品は好きじゃない。だが、監督の第1回作品だというソツなく優等生っぽく、しかし個性のないこの映画を見ていたら、まだしも一人よがり系の方がよいかもしれないと思ってしまった。おもしろい作品を見つける嗅覚はあるみたいだから、2作目は(そんな話があるとして)、もっと何とかしろよー!

quittan