ノッティングヒルの恋人

ある日、映画を観ていて、ふと、こんなことを思ったことが?

こんなこと起きるはずがない、どうせこの先の展開はこうだよ、こんなの出来すぎだ、やっぱりハッピーエンドか、・・・・・。

まさにこれです。しかし、この映画はラブコメディで、そして、この映画はハリウッドである。これらを理解して観る人なら、きっと面白いはず。さながら現代版「ローマの休日」(ラストは全く違う方向だが)。

そして何よりも、この作品はジュリア・ロバーツの映画である。ファンであるならなおさら必見です。で、これが終わったらすぐ「プリティブライド」です。

山下 裕

ノッティング・ヒルの恋人

★★★★
ベストフレンズ・ウェディングに続き、ジュリア・ロバーツの当たり役。彼女の魅力を充分に堪能できる作品だ。ストーリーはローマの休日を彷彿とさせる(と、いうか最後の記者会見のシーンなどはまんま。)ロマンティックなラブ・ロマンスだが、それを甘ったるくせず、現実味を持たせたのは脚本、セリフの面白さ、となおかつ脇をかためるクセのある俳優陣の力だろう。なかでもルーム・メイトを演じた、リス・エヴァンスのすっとぼけた演技は最高。

またキャスティングも作品の成功の理由の一つ。いかにもハリウッド・スターのイメージの強いジュリアをまんまスター役に起用し、「演技はヘタだから」なんてセリフを言わせてみたり最近かつての美青年時代の影の消えうせたヒューに対し、「ハンサムな顔も崩れてきて・・・」みたいなことをいったり。まさにハマリ役ですね。

また、注目したいのは、劇中のアナ・スコット(ジュリア)のファッション出会いの場面、シャネルのベレー帽に黒のパンツでバシっと決めながらも足元は黒のスニーカー。まさに女優とはかくあるべきという完璧なスタイリング。またゴージャスなドレスから「アニーホール」のダイアン・キートンを彷彿とさせるマニッシュなスーツ姿も観られます。

ラスト近く告白のシーンではごくフツウのセーターにタイトスカートのシンプルな姿で現れ「恋する普通の女」を上手く演出していました。次回作「プリティ・ブライド」でのウエディングドレスの着こなしも今から楽しみです。
MS. QT MAI

ノッティングヒルの恋人

http://www.shochiku.co.jp/cinema/nottinghill/★★★★

恋愛映画という枠の中で考えて★4つの評価をつけました。ハリウッド系のお決まり「恋愛映画」なんて、という人には耐え難い映画なのかもしれませんね。

休日の気分転換にはたしかにハリウッド映画のハッピーエンドがよい。仕事のストレスを感じて憂鬱なときに、暗い不幸な「ニル・バイ・マウス」的な映画を見たいとは思わない人が多いことは間違いないだろう。自分をどん底に落としてしまうかもしれない。

ただ反対に、人の不幸をみていかに自分がまだましなのかを知った方がいいという人にはその逆か。

ジュリア・ロバーツは結構好きな女優で、ヒュー・グラントも少し魅力を感じる俳優で、ロンドンの本屋(しかもトラベルブック専門店!)という設定にも憧れを感じて、「ああ、できすぎの恋が実りハッピーエンドを迎える映画だろうな」と確信していてもとりあえず見てくる事にした。

実際私はたまにこの手の恋愛映画を見たくなる。たいていは魅力を感じない設定、主演者で気にもとめない映画ばかりだが、いざ気になり始めるとどうにもこうにも見にいかなければ損でもした気分だ。ジュリア・ロバーツはアメリカでも日本でも人気があり、あの大口開けた笑顔がなぜかひかれるという人も老若男女とわず多いらしい。

ヒュー・グラントの人気がいかほどかは知らないが、それなりの顔立ち、役柄の性格では好感がもてる雰囲気で、もしかしてこんな事もありえるのではと一瞬考えてしまった。(あくまでも一瞬だ)

共同庭園のベンチでのシーンは日本人のなかの理想的なイギリスがあるし、階段ばかりの細長い青い扉の家は安いB&B(ベット&ブレックファースト)のイメージだし、安宿なんて知らなくてもリッツホテルがでているし、車で疾走してくロンドンの表通りには2階立てバスが走っている。ついつい「今度の年末はロンドンか?」と思ってしまう。

素直に評価して、きちんと笑いが織り込まれていて、ほんのりジーンとくる場面もあり、すっきり終わるところを評価したい。

立野 浩超

恋は嵐のように

こんなものだろう、と覚悟して観たものの、やはりサンドラブロック作品だったか…という感じ。いやこの作品に関しては彼女は悪くない、と思う。

もともとさほど美人ではないから正統派の役よりはこういうドタバタ系の女の方が合っているとは思うし、アンチ・サンドラの私でさえ可愛く思ったほどだ。

ではなにがいけないのか、ベン・アフレック、彼も決して悪くない。童顔マッチョな雰囲気が優柔不断男にはもってこいだし、もともとアクションからコスプレ系までこなせる演技力の俳優である。

要するにストーリーそのものが問題なのだ。相次ぐ災害も最後の方にはしつこくなりすぎてリアリティが全くないし、さんざん結婚に対する批判をしておきながら結局モトサヤか?!

ストーリーの流れとして、サンドラとベンのハッピーエンドは無理にせよ、もう少しラストで2人の関係をクローズアップさせ、いかに彼女の存在が素晴らしかったかをアピールするべきではなかったのだろうか。

一体サンドラ・ブロックの存在は何だったのだろう?それともホントにただのマリッジ・ブルーとはどういうものかを描きたかっただけの映画なのだろうか?

MS. QT MAI

バッファロー’66

★★

ビンセント・ギャロのことをあまりに各誌、各人がよく書きたてるため、かなり期待して行ったが、中身はうすっぺらな脚本で、ギャロ自身の演技も希薄。いままでの映画で見せつけた存在感がいっきに消えてなくなりそうだ。もちろん彼は変態風な役柄をこなすには最高の役者で、この手の映画には彼が出演すべきだろう。

ただ、この映画では彼が監督であったが為に自分のわがままがそのままとおりすぎて、はどめが効かなくなったのではないだろうか。演技がくどい。彼が監督、脚本、音楽、主演と一人で何もかもやりすぎた結果だろう。

さて、ギャロ以外にも触れておかなければならない。クリスティーナ・リッチはアダムス・ファミリーのころの面影を失い、ただのおでぶとなってしまった。あの体格があの癖のある映画にはお似合いだが、彼女のこれからの女優人生を考えると悲しくなってくる。個人的にはアダムスファミリー時代から、Dearフレンズ(95年)でロジー・オドネルの子供時代を演じていた彼女の姿までが気にっているが、もう過去の面影はない。彼女の太っていく姿はテレビ(シネマ通信)でも報じられていたと記憶しているが、あそこまでとは思わなかった。

ただしバッファロー’66は98年の映画で、その後の情報ではかなりダイエットに取り組み、いまはスレンダー(?)な姿にもどっているらしい。近日日本公開の「ラスベガスをやっつけろ」にも出演しているが、同じく98年の映画であるから体格は同じだろうが、99年には4本の映画出演が予定されていて、引き続き活躍が期待できる若手個性派女優の一人だといえる。

バッファロー’66でリッチの演技は、その演技上の評価よりも化粧と、肉付きで印象を高めた結果演技がごまかされ、かつ存在感がある為に観終わったときにまるで名演技をしていたかのような、個性あふれる役柄だったかのような錯覚に陥ってしまう。実際は三流の個性を演じていたいに過ぎなかったが。

一方、家の中と路上では監督としてのギャロの目線の素晴らしさを実感するシーンもあるが、ボーリング場の場面では「ビック・リボウスキー」を思い出さずにはいられないのも残念だ。映画としては随分違うボーリングシーンではあるが、一度観ればその関連にすぐに気付くだろう。

立野 浩超

レオス・カラックスの「ポーラX」

知ってた?たった37フラン(約 740 円)で、ストラスブール大通りの映画館パリ・シネ(le Paris Cine)で、2本も映画が見れることを。

今週は「ポーラX」と「Les mercenaires de l’espace(仮題:宇宙の戦士)」が上演されている。この2本の内、私は、フランス語版の1本しか知らないのだけれど。もともと、すぐに見れなくなってしまうかもしれないカラックスの作品しか見る積もりもなかったし。

(私は、この場をかりて、言わずに我慢できない愚痴を言わせてもらう。今ではポスターに載っている映画は、目もくらむような速さで次の作品と入れ替わってしまうのだ!

新作を見に行くことは、まさに蝶々取りと同じになってしまった。それほど、映画の命は、束の間のものとなってしまった。その後では、ビデオで防腐処置が施されるというわけだ)

私たちの蝶々に話しを戻そう、まさにカンヌで、完全に忘れ去られていた不名誉を巻き起こしたこの「ポーラX」に。

この作品は、素晴らしい結婚を約束されていたある若い作家の話しである。彼の作家としての成功は、彼が守ってきた神秘性と関係がある。彼は自分の顔を公の場に出すことを拒んできたのだ。

ところがそこに彼に執拗に付きまとう存在が現れる。彼女は、彼の妹だと名のる東の国から逃れてきた難民だった。彼女のために彼は全てを失ってしまうことになる。

アメリカの作家ハーマン・メルビルの小説を脚色したこの映画は、撮影の簡潔さあるいはカラックスが今までやってきたことの放棄によって注目される。

レオス・カラックスは、「ボーイ・ミーツ・ガール」の気取らない魔法や、「汚れた血」のコマ続きのような夢幻映像、また「ポンヌフの恋人」の大掛かりな豪華さ、これら全てを生み出したものを捨て去ったのだ。

確かに彼は、(太陽に照らされたノルマンディーの豪邸から、リトアニア人のシネアスト、シャルナ・バルタが不法入居した家にいたるまでの)映画の舞台セットや、(ギヨーム・ドパルデュー、褐色の髪のカテリナ・ゴリュブヴァ、ブロンドの髪のデルフィヌ・チュイヨの)感情の高ぶりを感じさせる肉体から、映画が持つ輝きを守った。

(金髪を輝かせ、その後姿を見せていたドヌーブのように)映画崇拝者の見事な映像は、詩情さえ感じさせてくれる。

最後に、現代的と言えるのは、鳴り止むことのない、また会話が途切れることのないコードレス電話である。始めのシークエンスの中では、見知らぬ声のしゃがれた息遣いを聞かせるのは、誰からか分からない電話であった。

しかし撮影するために、カラックスは、低い予算で彼の願望を再検討したのだ。彼はもはや彼自身、誰のため息か分からないものしか吐き出すことも出来なかったのか?あるいは、暗く陰鬱になりかけていた世の中で映画を作ることに苦しんでいるのか?まさにその暗さは、映写室を連想させる。

それでは、そこに戻ろう。パリ・シネの暗い映画館の中では、テレビなどの多重通信の中で起きていることとは逆に、映画は、変わることなく、そしていちゃつく男たちやいびきをかく酔っ払いに台無しにされている。そのうえ、トイレの中での男性バレエにも似た戯れは、映画を見るのとはまた違った楽しを思い描かせる。

受け入れにくいやり方をする映画監督の最新作は、ぼんやりした観客ばかりやって来るこの映画館の中に、奇妙にも逃げ場所を見つけ出している。カラックスはフランス語版の宇宙の戦士(un mercenaire de l’espace)に成り果てたのか?

少なくとも、羽を焼かれたイカロスは、その燃え滓しか残ってはいないとしてもさえない現在の映画製作からすればそれでもやはりまだ熱くほてっているのだ。

しかも、パリ・シネで燃え出したのは、まさに映画のフィルムだった。そのため映写は二度中断され、映画のラストを見ることも出来なかった。結局のところ、6ユーロ払って、私は一つの映画しか見れないのだ。それも、最後まで満足に見れないとは!

注)1ユーロは、6.55957 フラン。

ベル・ママン

■ベル・ママン BELL MAMAN 1999年(102分)

監督:ガブリエル・アギオン
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、ヴァンサン・ランドン、マティルド・セニエ

ストーリー:
法廷で知り合った弁護士の2人、アントワーヌとセヴリーヌ。二人の結婚式に駆け付けた花嫁の美しい毋、レアに一目惚れした新郎。何かと口実を設けては、彼女に近付こうとするアントワーヌ。娘が誕生しても想いは募るばかり。1度は拒絶するもののレアも心動かされ、2人の事はとうとうセヴリーヌの知れるところとなり・・。

コメント:
前作『ペダル・ドゥース』で一世を風靡したアギオン監督らしく、トイレで始まるダンスシーンなど、楽しさ満載。ラストで、アントワーヌの娘が一族を紹介するシーンが何ともいえない。「あのね、あれが私のパパで、ママは私のお婆ちゃん」

これからの社会、こんな家族が誕生するかも。

若者に惚れられるドヌーヴは、本当に美しい。こんなお義毋さんじゃ、無理ないかも、って納得。ちなみにタイトルは、美しいお母さんではなくて、義毋の事。