セレブレーション

先週の記事より反論を頂いたので、その方からの評をこちらでご紹介いたします。ScreenKissでは、読者の方からのご意見もご紹介いたしますので、我はと言う方はご投稿ください。(ご期待に添えないこともあります)

父親の60歳の誕生日に、子供や親戚が集まってお祝いを開く。一見どこにでもある平和な風景である。しかし、そこで繰り広げられたのは、尋常ではない親子の対決だった。車の鍵を隠された親戚たちは、親子対決の観客兼審判として残ることを、強制されてしまった。

宴会の場での長男クリスチャンの告白に驚きながらも、母親はそれは作り話よねと言いながら、そうした話は内輪の時にして欲しかったと言う。良識にあふれた人たちは、問題のある時は当事者同士で充分に話し合うのが良いという。家庭内の問題の時は、家庭内で充分に話し合えと言うわけだ。ちょっと見は正しそうな発言だが、家庭内での人間関係が上手くいっていないから、問題が起きたことに彼等は気づいていない。家庭が問題を起こしたのだ。犠牲者を生み出した家庭が、独力で問題を解決できるはずがない。

親の体験を子供に伝えることが有効性を失ってきた現代、親の恣意は次世代の教育に障害になってきた。そのため、旧来の躾を廃して、子供の生きる力をそのまま伸ばそうという、社会的な空気が生まれてきた。それがこの映画の背景である。この映画は最近公開された「ファザーレス」と同じ主題である。

家庭内の顔と家庭外つまり社会的な顔は、本人の中で一体化しているので、家庭内の顔だけを直すわけにはいかない。とくに親はすでに長く生きてきたので、彼や彼女自身の生き方全体にかかわってくる。小さな時にできた親子関係は、長い間にわたって固定し、親が本当に現役を退くまで上下関係は続く。生まれたときから作られてきた親子関係は、実に強固である。だから、そう簡単には関係が変わるわけがない。家族が対決するときは、この映画のように観客が必要なのだ。

この父親のように、子供たちに近親相姦をしていたり、また虐待していたりすれば、問題は簡単である。今や、いくら家庭内の問題とはいえ、外の人たちもそれに介入する。しかし、家庭的にも良くできた人で、社会人としても品行方正だが、親子関係が破綻したとなると、その非難はすべて子供の方へ来る。立派なご両親なのに、どうしてあんなお子さんができたのでしょうね、と言うわけだ。暴力を振るう親など、親に問題がある場合のほうが解決は簡単だろう。親は子供に愛情を持っているとみんなが思っているから、ことはやっかいなのである。

ロバート・デ・ニーロとシャロン・ストーンが演じた「カジノ」でもそうだったが、非の打ち所のない素晴らしい夫で、妻の言うことは何でも聞き、妻をいたわる。それでも荒れていく妻。これでは妻の方が、悪く言われて当たり前である。親子でも同じで、この映画でも父親はホテルの経営者で、立派な社会人である。立派な親と子供の関係こそ、子供には何とも言いようのない重圧であり、桎梏なのである。親子関係の本質が、少しづつだが理解され始めたので、こうした映画がつくられる。 この映画でも、家族の絆を確認しようとしながら、そのそばからこぼれ落ちていってしまう様が、良く描かれていた。近親相姦や暴力は論外としても、親もどう子供に対して良いか判らない。男性だけが人間だった時代から、女性も人間だと言ったフェミニズムを経て、今や子供も人間なのだ。子供は未成熟であるがゆえに親に監督権があるのではなく、親は子供という命を一時的に預かっているだけなのである。子供は子供のままで自立した人間である。

この映画は、手持ちのカメラで撮られたようで、画面が簡単に転換し、カメラが狭いところにも入っていっていた。舞台は田舎のホテルだけ、出演者は全員でも40人くらいと、きわめてこじんまりと制作されている。技術的には感心しないことが多かった。それでも見るに耐えるのは、やはり主題を支える問題意識のせいだろう。

トマス・ヴィンターベア監督はドグマ95に属し、純潔の誓いに署名しているのだそうだ。それは、「すべてロケで撮る」「セットを組んではいけない」「音楽を使ってはいけない」「人工照明の禁止」「手持ちカメラ」などと言った十戒を守るのだそうだが、まったくナンセンスな話だ。ドグマ95に属するラース・フォン・トリアー監督が作った「奇跡の海」は、最悪だったではないか。

技術の選択肢は多い程良く、技術に溺れることによって、画面の緊張感が薄れるとしたら、ただ下手だというに過ぎない。この映画で、照明不足により顔にモアレのようなものがかかって妙な効果がでていたが、あれは単に怪我の功名だろう。SFXなどを使ったからと言って、良い映画ができるわけではないのは確かだが、技術を嫌うことなく技術に溺れることなく、きちんと主題を押さえてって欲しい。1998年のデンマーク映画で、怪しげな技術ながら現代的な鋭い問題意識にもとづいた優れた映画であると思う。

本文全体は下記にて公開
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/セレブレーション.htm
匠 雅音

セレブレーション

まず、ドグマ95というのを知らなくてはならない。勉強不足の方のために簡単に説明しておきます。

デンマークの4人の監督が集まり以下の十戒に対して「純潔の誓い」に署名した。
1)撮影はロケーション撮影であること。セット、小道具も禁止。つまり、実際の家屋、土地、風景を探してその場所で撮影するということ。
2)映像の中以外の音は禁止。その逆も禁止。必然的な音楽以外は禁止。(効果音が使えない。)
3)カメラは手持ち。但し、手でできない動きや静止の場合は許可される。(詳細不明)
4)映画は白黒ではなく、カラーで。人工的な照明は禁止。
5)オプティカル処理、フィルター使用は禁止。
6)表面的なアクションはしない。(武器、殺人は出さない。)
7)時間的、地理的な剥離は禁止。
8)ジャンル映画は禁止。(SFや、ホラーは勿論撮れない。)9)アカデミー35mmのフィルムフォーマットを使用する。
10)監督はクレジットにのせない。

これにより、彼らは監督の個性を排除した作品をつくることができるということになる。映画はアートとして作られるのではなく、真実を撮ることを目的とし、たとえフィクションであれその中の真実のみを描き出すことに固執する。リアルな映画といったほうが分かりやすいだろう。

ただし、どんな規制を課したとしても、監督や各スタッフにより明らかにまったく異なった作品ができあがり、それは1個人の趣味趣向が織り込まれることには間違いない。

それはまるで絵画のキュビズムのような物ではないだろうか。一定の法則にそって描かれた作品は一見同じように見えても、それぞれの作品がまるで異なった個性を持ち、作者の感情が織り込まれ現れてしまい、最終的に個別のアートとなっている。

思うに、彼らにとってこれはいっときのムーブメントであろうが、もし彼らがその枠の中で1、2本撮影した後その誓いを破りすて、全く自由に映画を撮影したとすると、その映画は今までの彼らの映画を超える作品となる可能性は秘めていると思う。マンネリの凝り固まった頭に変化をもたらし、アイデアをもたらす行動なのではないだろうか。

さて、ドグマの十戒は果たしてどれほどの意味があるのか?

ロケーション撮影に関しては、場所を探すという労力がいままでにまして必要となる。小道具も禁止なため、外見のみならず、その中身までを考慮しなくてはならなくなるので、さらに苦労することだろう。また反面、監督のイメージと違った場合でもあまりわがままを通す事もなく、簡単に場所を決定してしまう可能性もある。映画は常に予算を計算しているものだからだ。

ロケーションにしても、セットにしても監督達の文章(原作や、脚本)からのイメージを現実のものとして置きかえていく為、個人の趣味趣向が多くの比重をしめてくる。それをできるだけ排除する為には、あえて不自然になるセット、小道具をなくすということだ。よくあるのは、映画やドラマの中の部屋で、家具や置物をよく見ると高価なものばかり。いったいこいつは年収いくらなのかと思ってしまう。また、できすぎた雰囲気の風景、きれいすぎる街並み、汚らしく見えるようにした汚れ、こういった不自然さがなくなる。それぞれ、いいロケーションを探しだせれば問題ないのだが。

音楽をいれないことは分かりやすい行動だろう。音楽で感情表現を盛りあげたり、喜怒哀楽をつくりだすのではなく、そのように上手く演じればいいのだから。必要であれば、劇中本人達にレコードやラジオをかけさせればいい。ダンスシーンなどには必要だろうから。

カメラは手持ちであること。クレーンをつかっておおげさに、レールをつかってスムーズにとはいかない訳だ。だが、「手でできない動き(Any movement attainable in hand)は許可される」とはどういうことだろ。どんな場合が手持ちでなくてもいいのかわからないが、まあ基本的には原則手持ちカメラを使用するということのようだ。おおげさな表現がここでも省くかれる。カメラのこの変化は明らかに映画に表現されているのだが、見づらい場面をいくつか作り出してしまい、改善の必要がある項目だ。手ぶれがひどい場合は固定して撮影すべきだろうし、その場合は手でできない動きにはいるのだろうから。

白黒を禁止することは、カラーのなかに意図的に白黒を挿入し、イメージを盛りあげるために使用する手法を禁じているわけだが、これも意味があるだろう。現実を現実として撮影するような映画をつくる場合、この手法にたよる必要性がないからだ。ただし、同時に人工的な照明を禁止していること。これは解せない。露出に十分な光が得られない場合はカメラにライトを一つだけとりつけることが許されるが、この光量では明らかに不足してしまう。手ぶれはする、光量は不足するでは、観ていて不快感が生じてしまい、映画に対してまともな評価すらできなくなってしまう。また、そういったシーンは特徴的になりがちで、ドグマ95としての効果に逆行する。ライトは十分な光量が得られるようにすべきだ。

ただし、それならそのようなシーンを使わないようにするか、編集段階でカットすべき場所とみなされるのかもしれない。その厳しさが「ドグマ95」か。

オプティカル処理もフィルターも不自然な映像、または自然すぎる映像をつくりだす為の手法で、これをなくした上でいかにイメージ通りに撮影していくか、監督と撮影監督の力量が現れる。

アクションとか、時間的、地理的な剥離、ジャンル物となることを嫌ったこともドグマ95の意図に添う。あえて説明もいるまい。

さて、アカデミー35mmにこだわる理由とは?(残念ながら不明です。)現在、ヨーロッパビスタですら画面が狭く感じる訳だから、35mmという幅はかなり狭く感じる。単にこの違和感を制限のひとつとしているだけか?幅を選べることに対する制限の意味あいか?

「監督はクレジットにのせない。」というなら、チラシ、パンフレットにものせないように徹底してほしい。監督の名前が後先でわかれば、クレジットにのっている、いないの意味がない。監督にとって、映画関係者にとってクレジットにのることは誇りでもあろうが、十戒の10番になるだけあってあまり意味がない。どうせなら世界で作品公開終了後まで監督の名前をふせるところまで徹底して初めてドグマ95にとっての意味が生まれる。これは世界同時公開でもしない限り明らかに無理なことだろうが。あくまでも心意気としてとらえるべき戒律なのかもしれないが。

さて、映画評にもどる。チャレンジ精神とリアルではないが痛烈な人間批判がこもった内容に賞をとる要素は感じるが、その割にストーリと人物一人一人の魅力はたいしたことがない。

幼児期(少年少女期?)の子供に対して、父親が犯してしまった性的虐待(近親相姦?)のために、、、となるわけだが、撮影(ライティング、手持ちカメラ等)の問題から観るのに疲れてしまう。

実際この作品を106分にすること自体が無理がある。もうすこし凝縮できる程度の密度であり、意図的に長びかしていったということではなく、編集に特徴がなさすぎたのではなかろうか。時間的な剥離を犯さないために気をつけたせいか、展開を正確に追っていく姿勢の為か、演出がしつこく感じる。

というわけで、ここで11番目の制約を作るとすると、作品は1時間30分以内とすること。

また、役者の演技等にも制限を加えたほうが良かったのではなかろうか。家族ものの場合は本当の家族の役者をつかうとか、すくなくとも化粧はファンデーション禁止とか、それこそアイロンかけ(クリーニング)は自分の予算でするとか。マイクはカメラの近くに設置するというのもいいかもしれない。

半分冗談じみてきたので、この変で終わりにしましょう。

立野 浩超